小沢健二の新シングル『フクロウの声が聞こえる』9月発売 絵本も同時刊行https://t.co/FbnoKTUxN6 #ozkn pic.twitter.com/EDTQ2M3A4a
— CINRA.NET (@CINRANET) 2017年7月31日
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☆☆☆自己紹介ここまで☆☆☆
フジロックで、絵本『アイスクリームが溶けてしまう前に(家族のハロウィーンのための連作)』刊行を発表
日米恐怖学会ってなんやねん?(笑)
アメリカのハロウィーンをテーマに子供たちとその家族が過ごす時間を描いた作品
9月6日に絵本『アイスクリームが溶けてしまう前に(家族のハロウィーンのための連作)』が刊行。小沢健二とイラストレーターのDaisuke Hongolian、小沢の妻で写真家のエリザベス・コール、ファッションディレクターの白山春久の4人による「小沢健二と日米恐怖学会」名義で発表される同書は、アメリカのハロウィーンをテーマに子供たちとその家族が過ごす時間を描いた作品だという。写真家・守本勝英の協力を得て制作された。
それにしても、40代後半で子育てしている小沢健二にシンパシーを感じる
この絵本も子どもさんに買って読んであげるといいじゃないですか
彼がどういうことを考えて子育てをしているのか、非常に興味深い
その後・・・うさぎはどうなったのかなあ?
ですか?
小沢健二の絵本『うさぎ!』
僕の実家にも眠っている(笑)
・・・でも、これまでも絵本を刊行されているんですね
うさぎTシャツ!
まだ続いているのかな?
まだ連載も続いているようですよ
とりあえず、ネットに公開されているこの第24話を読んでみ・・・
うさぎ!第24話(原発について)ネット公開によせて
口承文芸学者小澤俊夫によって設立された、小澤昔ばなし研究所について
ずっと昔話の研究をされているんだよね
小澤 俊夫 (おざわ としお)
1930年中国・長春生まれ。口承文芸学者。東北薬科大学助教授を経て、日本女子大学教授、独マールブルク大学客員教授、筑波大学副学長、白百合女子大学教授を歴任。現在は、筑波大学名誉教授。国際口承文芸学会副会長及び日本口承文芸学会会長も務めた。1992年より「昔ばなし大学」を開講、1998年には季刊誌『子どもと昔話』を刊行。おもな著書は『昔話の語法』(福音館書店)、『グリム童話を読む』(岩波書店)、絵本「子どもとよむ日本の昔ばなし」シリーズ全30巻(くもん出版)ほか。
昔話のような庶民の文化財の再構築
※抜粋
このような昔話内部の研究がなぜ必要なのでしょうか。
昔話は今日では、ほとんどの場合昔話絵本として、または昔話本として子どもたちに届けられます。 そのとき、昔話の文体とか各要素は本来このようなものなのだということが明確にされていなかったために、 適当に変えられているものが多いのです。 それでは大切な伝承文化財である昔話が、 きちんと次世代に伝えられないことになってしまいます。
口伝えによる伝承が生きていた時代には、口伝えされる間に「自己修正の法則」といわれている自己修正力が働いて、 口伝え本来の姿が回復されたのですが、 現在のように印刷物を通じてしか伝えられない時代には、 この自己修正力は働きません。 そのために、絵本や本にするときに、制作者の方できちんとしておかなければならないのです。
(中略)
昔ばなし研究所は、しっかりした話型、構造、様式、イメージの研究に基づく再話を試みます。そして、 私が1992年から全国37都市で開講している昔ばなし大学の受講者にも、正確な再話法を習得してもらい、 研究所の再話制作に参加してもらいたいと、夢をひろげています。 昔話のような庶民の文化財の再構築は、 一部のプロ作家だけにまかせるべきではありません。 正確な知識を習得した人が全国にいて、 伝えたいはなしを正確な姿に再話するのが本来の道だと思うからです。
子どもを愛し、昔話を愛する方々のご声援とお力添えを願う次第です。
お年寄りなんかから直接聞く機会はほぼないですよね
そして、それを防いでいこうというのが小沢健二パパの研究所だね
絵本によっては、昔話がコンパクトにまとめられているようで、なんか味気なさを感じる本も多い
それって実は、昔話に大切なリズム感がなくなっているからかも
できれば、五感で感じるような、本来のダイナミックな昔話を、子どもには伝えてあげたい
なんとなく気になる・・・小沢家の血脈について
小沢健二が子どもの頃にスキーに行ったていう話も、長野や新潟じゃなくて、さらっとヨーロッパのスキー場だったりするからね
小澤俊夫氏の弟はかの有名な小澤征爾でしょ
そして、その父、小澤開作がまた興味深い人物なんだよね
小沢 開作(オザワ カイサク)、明治31(1898)年12月25日~昭和45(1970)年11月21日
指揮者・小沢征爾の父。山梨県の貧乏な村に生まれた。歯科の学校に通いながら、金をかせぐためにバイオリン弾き、艶歌師などをやり苦労して学校を出て、23歳のとき満州へ。長春で歯科医を開業し結婚。本業は代診にまかせ、満州青年連盟の長春支部長の務めに没頭する。石原莞爾陸軍中佐の思想に共鳴し、満州建国の運動のリーダーとして活躍したが、理想と異った方向へ世相が変ってゆくのに失望。昭和19年帰国。戦後、ミシン会社を始めたが失敗し、歯科医に戻り、余生を静かに送った。
出典:kotobank.jp
「涙を知るのはいいことだ」敗戦を迎えて父が言った言葉は忘れられない
※小澤俊夫氏のインタビューより
父は満州で歯科医をしていましたが、その後政治団体に関わるようになります。昭和15年頃になると、父は「この戦争は勝てない」と言い出します。政治評論集を作り、軍部批判をしていたので、軍部からは睨まれ、自宅には毎日憲兵が来て監視されていました。翌年には父以外の家族が日本へ戻り、その2年後には父も日本へ。東京の立川に住みましたが、そこにも今度は特高警察が毎日来る。それでも父は国のことを憂いて平気で軍部批判をするので、いつ捕まるかとヒヤヒヤする日々を過ごしました。
ところが結局そのまま終戦を迎えましたが、その後父が亡くなったとき、特高として監視していた方から、ていねいなお悔やみの手紙をいただいたのには驚きました。そうした方たちも、父が憂国をもって信念を貫く姿を、じつは慕っていたのかもしれません。そしてぼくも、こうした父の姿に大きな影響を受けたのは言うまでもありません。
父が敗戦直後には、「この敗戦は日本にとっていいことだ。日本は日清戦争以来、負けていないから涙を忘れてしまった。これで涙を知るのはいいことだ」と言ったのも忘れられません。そして、ぼくら子どもたちには、「お前たち、好きなことをやれ」と言いました。
「大人は子どもを信頼しよう」小澤俊夫氏インタビューより
「三年寝太郎」の姿は「若者の変化」そのものです
昔話というと、「はなさかじい」など教訓ものが有名ですが、昔話にも「子どもの成長」が織り込まれています。教訓ものに登場するのは、じいさんかばあさんで、良いじいさんは最後まで良いじいさんと性格は変わりませんが、多くの昔話は主人公の性格は変わります。はじめは間が抜けていても、最後は賢くなる。
「三年寝太郎」のお話が好例です。寝てばかりいる若者が、あるとき悪知恵を出して長者の娘の婿になる話で、大人は「道徳的によくない」と言います。でも、ちょっとした悪知恵を働かせることは誰にでもあり、その意味で本当の人間の姿を伝えています。そして、「寝太郎」の姿は「若者の変化」そのものです。だからぼくはこの話が大好きです。
若いときにはいい加減でも、30~40歳になればちゃんとやっている。そんなぼくの「寝太郎理論」にあてはまる人はいっぱいますよ(笑)。ぼくは長い間大学で教えましたが、勉強しない学生がたくさんいました。でも卒業して20~30年も経つと、皆、すまして立派な大人になっていますから。
子どもは「育てる」のではなく「育つ」もの、大人は子どもを信頼しよう
ぼくの母は、ぼくらの手が離れたころ、「わたしはうちのなかで空気のような存在でありたいと思っていたのよ」とポツリと言ったことがあります。空気はふだんはその存在に気づきませんが、でもなければ生きていけません。父はぼくらの家が戦後貧しかったときに、音楽好きなぼくらのためにピアノを買ってくれた。「こんなに貧乏なのに……」と、親戚からは批判されたようですが、父は「おれの自由教育が正しかったかどうかを証明するのはお前たちだ」とぼくらに言ったことがあります。ぼくは「証明できないはずはない」と思いましたね。父も母も、ぼくら子どもたちを完全に信頼していました。
その目で見ると、現代の親子関係の状況はとても気がかりです。「子どもは無限の可能性を持っている」とよく言いますが、それは「大人が干渉さえしなげれば」という条件つきです。幼いときから、大人が子どもの可能性を一生懸命つんでしまっていないか、心配です。子どもは自ら成長し、変化するもの。そうした当たり前で大切なことを、昔話は教えてくれています。大人は、慌てずに焦らずに、子どもたちを信頼して、温かく見守っていてください。