【水俣病】ユージン・スミス51歳の決断、20代女性と再婚し水俣へ|映画「MINAMATA―ミナマタ―」を観て【公害の原点】

熊本ぼちぼち新聞
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熊本県民かつ50代男性として、こころして鑑賞してきたぞ。
ジョニー・デップさん主演の映画「MINAMATA―ミナマタ―」ですね。
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なぜ今、映画「MINAMATA―ミナマタ―」なのか?

出典:longride.jp

左翼だとか右翼だとか、関係ねー。なぜ今、水俣病なのか?
2021年、ジョニー・デップさん主演の映画「MINAMATA―ミナマタ―」がいよいよ日本でも公開となりました。

1971年、ニューヨーク。アメリカを代表する写真家の一人と称えられたユージン・スミスは、今では酒に溺れ荒んだ生活を送っていた。そんな時、アイリーンと名乗る女性から、熊本県水俣市にあるチッソ工場が海に流す有害物質によって苦しむ人々を撮影してほしいと頼まれる。水銀に冒され歩くことも話すことも出来ない子供たち、激化する抗議運動、それを力で押さえつける工場側。そんな光景に驚きながらも冷静にシャッターを切り続けるユージンだったが、ある事がきっかけで自身も危険な反撃にあう。追い詰められたユージンは、水俣病と共に生きる人々にある提案をし、彼自身の人生と世界を変える写真を撮る──。

出典:longride.jp

ジョニー・デップ主演『MINAMATA-ミナマタ-』 本予告

あのカリスマ俳優・ジョニー・デップがなぜ水俣病と向き合うのか?え?
なぜ今、水俣病でしょうか?
なぜ “水俣病” を題材にしたのか

映画のタイトルを「MINAMATA」というシンプルな一語にしたのには理由があるとレヴィタス監督が語ります。「私たちの目標は水俣病を知らない人たちに共感してもらうこと。変わった名前の街なので観客に自分の住んでいる街などを思い浮かべて、これは全世界の問題などだということを感じてもらいたかった」

俳優業だけでなく、環境問題にも取組んでいるデップさん。水俣病を題材にすることで環境汚染の問題などに注目してほしいという思いがあったと言います。

「水俣病の悲惨な影響を知れば、どれだけ困難な闘いが強いられたかわかるだろう。それをカメラを持った一人の男が問題を解決するために闘ったんだ。そのことをもっと多くの人が自覚する必要があります」と呼びかけた。

出典:news.yahoo.co.jp

ユージン・スミスという男、名前くらいは聞いたことあったけど、どういう人かを今回初めて知った。すでにカメラマンとして名声を得ていただが、齢50を過ぎて第一線から退こうというところからの決断、20代女性と再婚し水俣で人生最期の大仕事をやってのけた。51歳はちょうど今の自分と同じ年齢、男の生きざま、このへん特に興味深く鑑賞させてもらった。
自分の年齢と重ね合わせて、映画を鑑賞したんですね。

ちなみに、これまでにも水俣病を扱った映画は制作されてきました。そして、また新らに名作「MINAMATA―ミナマタ―」が追加されたと言えるでしょう。

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【公害の原点】水俣病(みなまたびょう)とは…?

出典:ja.wikipedia.org

そもそも水俣病とは? みんな学校で習ったよね。
ウィキペディアより引用します。

水俣病(みなまたびょう)とは、メチル水銀化合物(有機水銀)による中毒性中枢神経系疾患のうち、化学工場などから環境に排出された同物質によって汚染された海産物をヒトが経口摂取したことにより集団発生した公害病である。

1956年(昭和31年)5月1日、熊本県水俣市の新日本窒素肥料(現・チッソ)水俣工場附属病院長の細川一が水俣保健所に患者の発生を報告し、公式に確認された。1958年(昭和33年)頃から「水俣病」の名称が使われ始め、その後、類似の公害病にも命名されている(第二水俣病)。

「公害の原点」ともいわれ、工業災害における犠牲者の多さでも知られる。

1997年(平成9年)7月29日、熊本県知事が水俣湾の安全宣言を行い、同年10月から漁が再開された。

出典:ja.wikipedia.org

水俣病、チッソ、水銀、「公害の原点」だぞ。日本の高度経済成長の暗部を象徴する出来事とも言えよう。
さらに、よく知らない方のため、Yahoo!キッズより引用します。
水俣病ってどんな病気?

1950年代、熊本県水俣市で原因がわからない病気が発生しました。手足がしびれたり、カラダがふるえたり、言葉がしっかり話せず、相手の言葉が聞きとりにくいなどの症状(しょうじょう)をうったえる人たちが増えたのです。ひどい場合は激しい痛みにおそわれ、意識不明になったり、亡くなることもありました。当時、この病気がなぜ発生したのかわかりませんでした。そのため、地域の名前をとって水俣病と名づけられました。

水俣病の原因

その原因は、ビニール製造に必要な原料(アセトアルデヒド)をつくるときに発生したメチル水銀によるものでした。メチル水銀は工場廃水(はいすい)に混じって海に流れ、魚や貝によって人のカラダにとりこまれました。この魚や貝を食べた人たちに水俣病の症状が出たのです。この汚染(おせん)はチッソという会社によって引きおこされました。水俣病の原因がわかったのが1968年。チッソがアセトアルデヒドを作り始めて36年後のことでした。

公害都市から環境モデル都市に

廃水が流されていた水俣湾にはメチル水銀を大量にふくんだヘドロがたまり、厚みが4メートルになったところもあったといいます。その結果、水俣病にかかったと認められた人は2000人をこえ、被害(ひがい)を受けた人は1万5000人以上になりました。その後、13年の歳月(さいげつ)と485億円というたくさんのお金をかけて水俣湾は埋め立てられ、水俣病の被害は止まりました。1997年、熊本県知事が「水俣湾の安全宣言」を行い、魚を釣って食べたり、泳いだりすることもできるようになっています。現在水俣市では、水俣病の被害を語りつぎ、こうした公害を二度とおこさないため、世界の環境モデル都市として積極的な取り組みを行っています。

出典:kids.yahoo.co.jp

一応、水俣病は解決したみたいな印象だが、これがまだ完全に解決されていないのでは? というのが今回の映画の問いかけでもあるね。世界各地の公害が紹介されるエンディングロールには背筋が凍ったよ。
今回の映画は、水俣病だけではなく、世界で同様な悲劇が繰り返されていることへの警句となっています。
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ユージン・スミスという男

出典:www.cinemacafe.net

過去の名声があって、50歳を過ぎて人生を締めくくろうとしていた男が、なぜ突然20代女性と再婚し、そして日本の水俣でまた大仕事をやってのけたのか? 
ユージン・スミスさんと、当時の奥さんであるアイリーン・美緒子・スミスさんのプロフィールを映画の公式ホームページより引用します。
ウィリアム・ユージン・スミス(1918-1978)

1918年12月30日、アメリカ・カンザス州ウィチタ生まれ。高校在学中から地元の新聞に写真を発表し、1936年ノートルダム大学に入学するも半年で中退し、翌年にニューヨーク・インスティチュート・オブ・フォトグラファーに編入。同年「ニューズウィーク」誌のカメラマンとなり、続いて「LIFE」誌のカメラマンとなる。1941年、太平洋戦争が勃発し、「フライング」の特派員として戦地に向かう。サイパン、沖縄、硫黄島などの戦地で取材を重ねる。1945年、沖縄戦で砲弾の爆風を受け重傷を負い、2年間カメラマンとしての仕事を休業する。その後、復帰したスミスは「楽園へのあゆみ」、「カントリー・ドクター」、「スペインの村」、「助産師モード」など数多くの優れたフォト・エッセイを「LIFE」誌に発表。1954年、「LIFE」を辞め、翌年に世界的写真家集団「マグナム・フォト」に加わる。1959年、「ポピュラー・フォトグラフィー」誌より世界の十大写真家の一人に選出。1961年9月日立製作所のPR撮影のため来日し、1年間日立市に滞在する。1971年8月、写真展 「真実こそわが友」を新宿・小田急百貨店で開催するため再び来日。同年アイリーンと結婚し、水俣市に移住。3年間水俣市に暮らしながら水俣病の問題を取材。1972年には五井事件に巻き込まれ重傷を追った。1975年、アイリーンとの連名による写真集「MINAMATA」がアメリカで出版され、世界中で大反響を呼んだ。翌年、スミスはロバート・キャパ賞を受賞。アイリーンと離婚し11月、アリゾナ大学の写真教授になるため、アリゾナ州ツーソンに移る。1977年末、脳溢血の発作で倒れ、1978年10月15日、二度目の脳溢血の発作により死去。享年59歳。写真集「MINAMATA」がスミスの遺作となった。

出典:longride.jp

アイリーン・美緒子・スミス

1950年、東京生まれ。アメリカ人の父親と日本人の母親をもつ。1968年、スタンフォード大学入学。1970年に、語学力を生かして通訳者として富士フイルムのコマーシャル制作の仕事に携わりユージン・スミスと出会い、結婚後すぐに水俣に移住。1983年コロンビア大学にて環境科学の修士号取得。1991年、環境市民団体グリーン・アクション設立。

出典:longride.jp

出典:twitter.com

ユージン・スミスの代表作「入浴する智子と母」が衝撃だったね。しばらくこの写真は封印されていたらしいが、今回の映画からまたその封印が解かれたという。これはいろんな意味で凄い写真だよね。
その「入浴する智子と母」とはこちらです。

「入浴する智子と母」

出典:「入浴する智子と母」ユージン・スミス

自ら体験した「真実」を追い求め、ドキュメンタリー写真を芸術の域にまで高めた伝説の写真家W. ユージン・スミス。写真集『MINAMATA』は、写真史上最重要のフォト・ジャーナリストの代表作であり、最後の仕事として知られます。高度経済成長期の日本に起きた四大公害事件の一つである水俣病を、現地に3年以上暮らし、当時の妻アイリーンとともに命を懸けて取材。長らく絶版となっていた、水俣の真実に迫る不朽のドキュメントがいまここに蘇ります。クレヴィス (2021/9/7)

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映画「MINAMATA―ミナマタ―」をみて、僕が思ったこと

出典:eiga.com

下世話かもしれんが、まずもって、酒に溺れ人生を締めくくろうとしていた男がなぜ20代女性と再婚できた? ユージン・スミスは決して聖人ではないと思ったね。
ちなみに、水俣で仕事を終えた後、ユージン・スミスさんは1978年死去、享年59歳でした。アイリーン・美緒子・スミスさんはご存命です。
映画を観た後、ユージンとアイリーンについて、ウィキペディアをはじめインターネットでいろいろと調べたよ。映画は若干脚色されていて、エピソードの順番などもちょっと違う。僕なりに二人について、それなりに理解できた。ユージンは偉大な男だが決して聖人君主ではない。でも、そこも愛すべきところかもしれない、と思ったね。
どこが映画と違うんですか?
映画ではアイリーンがユージンを水俣へと誘って、それから二人は結婚するのだが、事実はユージンとアイリーンは回顧展か何かの縁で出会って、ユージンが彼女を口説いて結婚することになった。その後、別な人から水俣病のことを知らされて、二人で水俣に行くことを決心するんだよ。また、ユージンの死の一因となった1972年五井事件は、水俣ではなく千葉県市原市五井にあるチッソ五井工場での出来事。そして、水俣からアメリカに戻って写真集を発表した後、ユージンとアイリーンは離婚している。

出典:ja.wikipedia.org

へー。
ただ核心部分というか、ユージンとアイリーンが水俣に対して起こしたアクションについては、きちんと映画で伝えられていると思った。偉そうで恐縮だが、ジョニー・デップは今回よい仕事をしたと思うぞ。
でも、映画みた後、へんなツイートしてませんか?(苦笑)

いやいや、正直な印象(笑)。なんとなく庵野秀明にも似てるなあと思って映画をみていた。信念を貫く男はどこか似てくるんじゃない? また、真田広之の熊本弁もよかったぞ。
今回の映画はアメリカ映画ですが、日本の有名な俳優さんも多数出演されています。
てゆーか、監督は、適当なアジア人の俳優ではなく、ちゃんと日本人俳優を使うという方針だったらしい。ちなみに、敵役というかチッソ社長を演じた國村隼。「全裸監督」も良かったが今回も存在感を示していた。彼は大阪出身だけど、生まれたのは熊本・八代市らしいね。
へー。
ただロケ地が、ほぼセルビア・モンテネグロで撮影されたらしい。監督らでちゃんとロケーションをしたけど、当時の面影を再現するには、今の水俣市よりそっちがよいと判断したらしい。僕が思う熊本の空気感とは若干違う気もしたけど、ま、悪くはなかったよ。てゆーか、これ日本映画じゃなくてアメリカの映画だからね。そこがなんか不思議な感じ。
坂本龍一さんの音楽も評判よいようですね。
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【その後の水俣病】関連書籍・写真集で水俣病を学ぶ

Amazonで購入

映画のおかげで、僕もまた水俣病と熊本について、思いをあらたにしたよ。もっと詳しく学ぶための書籍を並べて、おしまいにしたい。
まずはユージン・スミスさん関連の写真集や評伝がこちらです。

水俣での経験に目を瞑ることは日本の将来から目を背けること等しい 2012年7月末、「水俣病患者の救済」を謳って2009年に成立した特別措置法に基づく救済認定の申請が締め切られた。公害病の原点であり、発生から60年近くが経過した水俣病は、これで本当に終わったのだろうか。40年にわたる取材を経たフォト&エッセイは、「何も終わっていない」水俣の過去と現在を写し出す…。千倉書房 (2012/10/25)

世界中を震撼させた写真集『MINAMATA』はいかにして撮影されたのか。「フォトジャーナリズムの巨星」の本格評伝。第19回小学館ノンフィクション大賞受賞。小学館 (2013/4/27)

伝説のフォトジャーナリスト最後の3年間。20歳の時、51歳のフォトジャーナリスト、ユージン・スミスと出会ったアイリーン・美緒子・スプレイグ。二人は、チッソの工場排水が引き起こす未曾有の公害に苦しむ水俣を目指した――。取材開始から十年。近代化の傷と、再生を勝ち取った魂の闘いに迫る大河ノンフィクション。文藝春秋 (2021/9/10)

そして、1972年当時に出版され、水俣病を学ぶための基本とも呼べる本が、原田正純氏のこちら。
岩波新書から今も版を重ねて出版されています。

公害病の中でも大規模で最も悲惨なものの一つ、水俣病。苦痛に絶叫しながら亡くなった人々や胎児性患者のことは世界的にも知られているが、有機水銀によるこの環境破壊の恐るべき全貌は、いまだに探りつくされてはいない。長年患者を診察してその実態の解明にとりくんできた一医学者の体験と反省は、貴重な教訓に満ちている。‎ 岩波書店 (1972/11/22)

また、熊日が出してるこのガイドブックも、水俣病の今を知るのによいかもね。
こちらは熊本日日新聞社より、2019年出版です。

【水俣病の概要を知る入門書&ガイドブック】水俣病事件のあらましや補償制度など、水俣病の概要を掲載。また、水俣市周辺のカラー地図や写真を使って水俣病を学ぶための訪問先などを紹介しています。半日~2日間で歩いて回るモデルコースや、交通アクセスから情報源まで役立つ情報を満載しています。水俣、そのまわりの地域で一体何があったのか、何を教訓とすべきなのか。今なお残されている問題は何なのか。水俣病事件を考えるきっかけとなる一冊です。※2014年に発行した「水俣学ブックレットNo.12 水俣を歩き、ミナマタに学ぶ」の情報を大幅に更新した新版です。熊本日日新聞社 (2019/4/6)

最期に忘れてはならないのが、幼い頃自らも水俣でも過ごした熊本の歌人・石牟礼道子氏の作品。これも有名だよね。
石牟礼道子さんの『苦海浄土』も水俣病関連書籍として有名です。石牟礼道子さんも水俣病に向き合い続けて、2018年に享年90歳でお亡くなりになりました。

出典:ja.wikipedia.org

公害という名の恐るべき犯罪、“人間が人間に加えた汚辱”、水俣病。昭和28年一号患者発生来十余年、水俣に育った著者が患者と添寝せんばかりに水俣言葉で、その叫びを、悲しみ怒りを自らの痛みとし書き綴った《わがうちなる水俣病》。凄惨な異相の中に極限状況を超えて光芒を放つ人間の美しさがきらめく。講談社 (1972/12/15)

石牟礼道子の思想に迫る、追悼特集。水俣に生きる人々の暮らしと病を見つめ続け、『苦海浄土』をはじめとする記念碑的作品を遺した石牟礼道子。その来歴と作品世界の広がりを再考し、追悼する。青土社 (2018/4/5)

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