【熊本ぼちぼち新聞】ノッポさん(高見映・京都出身)の父親、熊本出身で美男子の喜劇役者・柳妻麗三郎(やなづま れいざぶろう)とは…?【2023年5月10日(水)~12日(金)|第89号】

熊本ぼちぼち新聞(全国版)
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ノッポさんは京都出身だけど、お父さんは熊本の人らしい!
ホントですか?

名前:くま(♂)
プロフィール:高齢子育て中、毎日吞まずにはいられない
特技:リフティング50回
名前:カエル(♂)
プロフィール:ゆとり世代(さとり世代)、独身、潔癖症
特技:インターネット超高速検索
熊本ぼちぼち新聞では、僕ら目線でゆるーくぼちぼちニュースを追う。 

【2023年5月10日(水)~12日(金)】分です。
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【2023年5月10日(水)】トランプ氏の性的暴行認定、500万ドルの支払い命令 米地裁

30年前とか、よくわからん。
トランプ氏の27年前の性的暴行が民事訴訟で認定されました。しかしながら、連邦地裁はトランプ氏側に500万ドル(約6億7600万円)の支払いを命じたものの、強姦については認めなかったそうです。

トランプのニュースとデ・ニーロのニュースを並べたら怒られるだろうか?
現在79歳のロバート・デ・ニーロに7人目の子どもが誕生したそうですね(苦笑)。

【流水型ダム】立野ダム、5月中に完成 「洪水調節できる状態」 11月から試験湛水へ

立野ダムは、白川沿川の洪水被害を防ぐことを目的とした洪水調節専用ダム(流水型ダム*)で、昭和28年6月洪水と同程度の洪水を安全に流すことを目指して、基準地点である代継橋地点における基本高水のピーク流量3,400m3/sを、立野ダムにより400m3/sの洪水調節を行い、計画高水流量3,000m3/sに低減し、洪水被害の防止又は軽減を図ります。
*流水型ダム:洪水調節のみを目的とするダムで、現在の川の高さとほぼ同じ高さに放流する穴を設置し、平常時には流水の貯留を行わないダム

出典:www.qsr.mlit.go.jp

立野ダムは、白川沿川の洪水被害を防ぐことを目的の「流水型ダム」か。あのへんの景観も含めて、迫力ありそう。今度みにいこ。
「立野ダム展望台」という見学スポットがあるみたいです。

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【2023年5月11日(木)】千葉・震度5強、千葉・神奈川で計3人負傷

また地震だぞ。続くな。
気象庁は今後も「最大震度5強程度の地震に注意」と会見しています。

【訃報】「子ども好きな優しい人」 ノッポさん死去、熊本県内の関係者ら惜しむ声 熊日童話会イベントに出演

映画俳優や奇術師として活躍した父・柳妻(やなづま)麗三郎(熊本市出身)に付き従ううちに芸能界入りした。

出典:熊本日日新聞

ノッポさん、ずっとありがとう。ところで、ノッポさんは京都府出身だけど、お父さんは熊本の人だったらしいよ。熊日に載ってた。
さすが熊日新聞、いつものごとく熊本との関連をすぐに見つけてくれますね(苦笑)。

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【2023年5月12日(金)】殺人疑いで逮捕の中学校教諭 FX投資などで数百万円の借金か

500万円前後の借金か…うーむ。でも、一線を超えちゃダメだよ。最後の10万を10回に分けて1万円海外FXハイレバチャレンジをすれば一発大逆転とまではいかなくても、首の皮で返済していくチャンスもあったろうに…。
この中学校教諭は職場での信頼もあったようです。ご家族・お子さんもいらっしゃいます…。

八代市の切りつけ事件、女性の頭などに数カ所の傷 熊本県警が殺人未遂容疑で捜査 軽自動車で逃走か

まだ捕まらないのか…。軽自動車で逃走って、もう八代にいなんじゃない?
怖いですねえ…。

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【熊本ぼちぼち新聞】ノッポさん(高見映・京都出身)の父親、熊本出身で美男子の喜劇役者・柳妻麗三郎(やなづま れいざぶろう)とは…?【2023年5月10日(水)~12日(金)】

出典:ja.wikipedia.org

ノッポさん(高見映・京都出身)の父親、熊本出身で美男子の喜劇役者・柳妻麗三郎(やなづま れいざぶろう)について、Wikipedisにわりと詳しくのっていた。
上のポスター画像では、左上の男性のようです。

柳妻 麗三郎(やなづま れいざぶろう、1898年3月9日 – 1988年あるいは1989年)は、日本の俳優、芸人、元奇術師、元照明技師である。奇術師時代の芸名は松旭斎 天秀(しょうきょくさい てんしゅう)、本名・旧芸名は高見 嘉一(たかみ かいち)、一時期、チャーリー 高見(チャーリー たかみ)とも名乗った。「マキノのチャップリン」と呼ばれ、「昭和の鳥人」こと高木新平に軽業を指導したこと、および「ノッポさん」こと高見映の実父としても知られる。

1898年(明治31年)3月9日、熊本県熊本市二本木町(現在の同県同市西区二本木)に生まれる。
高見嘉太郎の長男として生まれ、長じて、地元(二本木遊郭)の芝居小屋「東雲座」で照明係や設備営繕等の技術職を務めた。やがて、全国を巡業していた松旭斎天一(1853年 – 1912年)と出逢い、これに師事して奇術師に転向、「松旭斎 天秀」の名をもらう。満16歳になる1914年(大正3年)、京都の日活関西撮影所で、牧野省三が新劇(現代劇)を製作する際にこれに出演、以降、天一一座から離れて、同撮影所で照明技師を務めていた。1920年(大正9年)には、同撮影所の演技学校におり、高木新平はここで高見(柳妻)に師事している。

満27歳になった1925年(大正14年)6月、牧野省三が東亜キネマを退社、天授ヶ丘に御室撮影所を建設してマキノ・プロダクションを設立した際にこれに参加する。同年9月11日に公開された『奇傑鬼鹿毛 第二篇』(監督金森萬象)で「浮鮫源三郎秀春」役に抜擢されて出演、本名の「高見 嘉一」でクレジットされた。同作のプロモーションでは、主演の武井龍三が「鳥人」、平八郎が「巨人」、高見(柳妻)は「豹人」というフレーズがつけられた。同年10月30日に公開された『駕屋の先生』(監督沼田紅緑)に出演したときから、芸名を「柳妻 麗三郎」と改める。1926年(大正15年)5月5日に公開された『活動狂時代』(監督曾根純三)では、「チャップリンに似た男」役を演じ、子役スター松尾文人とともに「大チャプ小チャプ」と宣伝された。同年11月7日から公開が開始した『照る日くもる日』のシリーズでは、「猿の源次」役を演じて代表作のひとつになり、現代劇、時代劇問わず出演した。高見映によれば、父・高見嘉一(柳妻)は「顔がバタくさく」、「美男子の父」の顔が印刷されているトランプが残っているという。
(中略)
1979年(昭和54年)10月23日に発行された『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)の柳妻の項目によれば、すでに引退はしていたが、満81歳を迎えるその当時は存命で、東京都三鷹市上連雀に住んでいたようである。高見映の回想によれば、正確な没年月日は伏せられているが、『ノッポさんがしゃべった日』の執筆されたころ(1991年5月発行)から数年前に亡くなったという。また近年、読売新聞のインタビューで、高見映は自身が54歳の時に亡くなったと発言している。したがって没年は1988年か1989年、満90歳あるいは91歳没となる。

出典:ja.wikipedia.org

ノッポさんのお父さんも日本の芸能史に残る芸人さんだったとは! しかも熊本出身。熊本駅近く、黒亭の本店や埼陽軒がある、あのあたりか? 昔の二本木界隈は華やかだったんだろうなあ。
最後に…ノッポさんが語った、お父さんとの思い出です。いい話ですねえ。
僕を信じ続けたおやじ

 NHK教育テレビの「できるかな」でノッポさんの仕事をもらった時、僕はもう30代半ばでした。おやじと同じ芸の道を選んだものの、仕事にありつけない時期が、ずっと続いたわけです。
 20代のある時。僕は「これからどうなるのか」とうっ屈した気持ちを抱え、自殺を考えるほど思い悩んでいました。おやじには何も相談しませんでしたが突然、「嘉明ちゃん、京都に行きましょ」と。二人で小さなホテルに泊まり、おやじは何も言わず金閣寺に連れて行ってくれました。
 雨が降っていました。修学旅行生もおらず、人気(ひとけ)がありませんでした。おやじは後ろの方で傘を差していましたね。目の前に金閣寺。何百年も前に、ぜいを尽くして建てられ、ここでお月見が催された。そのぜいたくさに比べて、自分が悩んでいることの何とちっぽけなこと。闘争心がわいてきましてね。「もうちょっと頑張ってやるか」と立ち直ることができました。
 おやじは僕のことを、なぜか生まれた瞬間から「この子はできる子だ」と買いかぶってしまったのです。いつも、大人になってからも「嘉明ちゃん」か「あなた」と敬意を込めて呼んでくれました。仕事がない僕を、母親たちは「頑張れ」と励ましましたが、おやじときたら、「が」の字も言わない。「少々、運が悪いだけです」ってなもんです。息子の才能を全く疑っていない。
 後々、いくらか仕事が来るようになり、時にはおやじに褒められたくて報告に行っても、不思議そうな顔をするわけです。「なんで、わざわさ。もっと出来ますよ」
 僕はおやじのそばにいる限り、実に心安らかでした。ただ甘えさせたり、かわいがったりとは全然違う。
 「この子はできる」という確信を持ち続けてくれる人がいると、「自分はそれほどの子じゃないよ」とわかっていても、気が楽なのです。資質や素質があれば、そういう人のそばでは、何かになれるのです。僕がそうなった、とは言いませんよ。
 おやじは僕が54歳の時に亡くなりました。小さいころ、二人だけで浅草の劇場によく行きました。今も浅草を30メートル歩けば、心が温かくなる。僕を買いかぶりっぱなし、ひいきのしっぱなしで死んでいったおやじに「ありがとう」と礼を言い、僕があんまりたいしたことないから「ごめん」と謝っています。
 2年前、71歳の時に「グラスホッパー物語」で歌手デビューし、兄貴たちはひと言もしゃべらないノッポさんより、歌ったり踊ったりしたから喜んでくれました。おやじも同じだったでしょうね。
 もしもですよ、僕がこれからものすごく大きな舞台をやって、大きな賞をもらったとしても、おやじは「よくやった」とは絶対言いませんよ。答えはわかってます。「あったり前でしょ」
(聞き手・古岡三枝子)

(2007年12月11日 読売新聞)

出典:osaka.yomiuri.co.jp

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