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なぜ今、映画「MINAMATA―ミナマタ―」なのか?
出典:longride.jp
1971年、ニューヨーク。アメリカを代表する写真家の一人と称えられたユージン・スミスは、今では酒に溺れ荒んだ生活を送っていた。そんな時、アイリーンと名乗る女性から、熊本県水俣市にあるチッソ工場が海に流す有害物質によって苦しむ人々を撮影してほしいと頼まれる。水銀に冒され歩くことも話すことも出来ない子供たち、激化する抗議運動、それを力で押さえつける工場側。そんな光景に驚きながらも冷静にシャッターを切り続けるユージンだったが、ある事がきっかけで自身も危険な反撃にあう。追い詰められたユージンは、水俣病と共に生きる人々にある提案をし、彼自身の人生と世界を変える写真を撮る──。
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ジョニー・デップ主演『MINAMATA-ミナマタ-』 本予告
なぜ “水俣病” を題材にしたのか
映画のタイトルを「MINAMATA」というシンプルな一語にしたのには理由があるとレヴィタス監督が語ります。「私たちの目標は水俣病を知らない人たちに共感してもらうこと。変わった名前の街なので観客に自分の住んでいる街などを思い浮かべて、これは全世界の問題などだということを感じてもらいたかった」
俳優業だけでなく、環境問題にも取組んでいるデップさん。水俣病を題材にすることで環境汚染の問題などに注目してほしいという思いがあったと言います。
「水俣病の悲惨な影響を知れば、どれだけ困難な闘いが強いられたかわかるだろう。それをカメラを持った一人の男が問題を解決するために闘ったんだ。そのことをもっと多くの人が自覚する必要があります」と呼びかけた。
ちなみに、これまでにも水俣病を扱った映画は制作されてきました。そして、また新らに名作「MINAMATA―ミナマタ―」が追加されたと言えるでしょう。
【公害の原点】水俣病(みなまたびょう)とは…?
水俣病(みなまたびょう)とは、メチル水銀化合物(有機水銀)による中毒性中枢神経系疾患のうち、化学工場などから環境に排出された同物質によって汚染された海産物をヒトが経口摂取したことにより集団発生した公害病である。
1956年(昭和31年)5月1日、熊本県水俣市の新日本窒素肥料(現・チッソ)水俣工場附属病院長の細川一が水俣保健所に患者の発生を報告し、公式に確認された。1958年(昭和33年)頃から「水俣病」の名称が使われ始め、その後、類似の公害病にも命名されている(第二水俣病)。
「公害の原点」ともいわれ、工業災害における犠牲者の多さでも知られる。
1997年(平成9年)7月29日、熊本県知事が水俣湾の安全宣言を行い、同年10月から漁が再開された。
水俣病ってどんな病気?
1950年代、熊本県水俣市で原因がわからない病気が発生しました。手足がしびれたり、カラダがふるえたり、言葉がしっかり話せず、相手の言葉が聞きとりにくいなどの症状(しょうじょう)をうったえる人たちが増えたのです。ひどい場合は激しい痛みにおそわれ、意識不明になったり、亡くなることもありました。当時、この病気がなぜ発生したのかわかりませんでした。そのため、地域の名前をとって水俣病と名づけられました。
水俣病の原因
その原因は、ビニール製造に必要な原料(アセトアルデヒド)をつくるときに発生したメチル水銀によるものでした。メチル水銀は工場廃水(はいすい)に混じって海に流れ、魚や貝によって人のカラダにとりこまれました。この魚や貝を食べた人たちに水俣病の症状が出たのです。この汚染(おせん)はチッソという会社によって引きおこされました。水俣病の原因がわかったのが1968年。チッソがアセトアルデヒドを作り始めて36年後のことでした。
公害都市から環境モデル都市に
廃水が流されていた水俣湾にはメチル水銀を大量にふくんだヘドロがたまり、厚みが4メートルになったところもあったといいます。その結果、水俣病にかかったと認められた人は2000人をこえ、被害(ひがい)を受けた人は1万5000人以上になりました。その後、13年の歳月(さいげつ)と485億円というたくさんのお金をかけて水俣湾は埋め立てられ、水俣病の被害は止まりました。1997年、熊本県知事が「水俣湾の安全宣言」を行い、魚を釣って食べたり、泳いだりすることもできるようになっています。現在水俣市では、水俣病の被害を語りつぎ、こうした公害を二度とおこさないため、世界の環境モデル都市として積極的な取り組みを行っています。
ユージン・スミスという男
ウィリアム・ユージン・スミス(1918-1978)
1918年12月30日、アメリカ・カンザス州ウィチタ生まれ。高校在学中から地元の新聞に写真を発表し、1936年ノートルダム大学に入学するも半年で中退し、翌年にニューヨーク・インスティチュート・オブ・フォトグラファーに編入。同年「ニューズウィーク」誌のカメラマンとなり、続いて「LIFE」誌のカメラマンとなる。1941年、太平洋戦争が勃発し、「フライング」の特派員として戦地に向かう。サイパン、沖縄、硫黄島などの戦地で取材を重ねる。1945年、沖縄戦で砲弾の爆風を受け重傷を負い、2年間カメラマンとしての仕事を休業する。その後、復帰したスミスは「楽園へのあゆみ」、「カントリー・ドクター」、「スペインの村」、「助産師モード」など数多くの優れたフォト・エッセイを「LIFE」誌に発表。1954年、「LIFE」を辞め、翌年に世界的写真家集団「マグナム・フォト」に加わる。1959年、「ポピュラー・フォトグラフィー」誌より世界の十大写真家の一人に選出。1961年9月日立製作所のPR撮影のため来日し、1年間日立市に滞在する。1971年8月、写真展 「真実こそわが友」を新宿・小田急百貨店で開催するため再び来日。同年アイリーンと結婚し、水俣市に移住。3年間水俣市に暮らしながら水俣病の問題を取材。1972年には五井事件に巻き込まれ重傷を追った。1975年、アイリーンとの連名による写真集「MINAMATA」がアメリカで出版され、世界中で大反響を呼んだ。翌年、スミスはロバート・キャパ賞を受賞。アイリーンと離婚し11月、アリゾナ大学の写真教授になるため、アリゾナ州ツーソンに移る。1977年末、脳溢血の発作で倒れ、1978年10月15日、二度目の脳溢血の発作により死去。享年59歳。写真集「MINAMATA」がスミスの遺作となった。
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アイリーン・美緒子・スミス
1950年、東京生まれ。アメリカ人の父親と日本人の母親をもつ。1968年、スタンフォード大学入学。1970年に、語学力を生かして通訳者として富士フイルムのコマーシャル制作の仕事に携わりユージン・スミスと出会い、結婚後すぐに水俣に移住。1983年コロンビア大学にて環境科学の修士号取得。1991年、環境市民団体グリーン・アクション設立。
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「入浴する智子と母」
出典:「入浴する智子と母」ユージン・スミス
自ら体験した「真実」を追い求め、ドキュメンタリー写真を芸術の域にまで高めた伝説の写真家W. ユージン・スミス。写真集『MINAMATA』は、写真史上最重要のフォト・ジャーナリストの代表作であり、最後の仕事として知られます。高度経済成長期の日本に起きた四大公害事件の一つである水俣病を、現地に3年以上暮らし、当時の妻アイリーンとともに命を懸けて取材。長らく絶版となっていた、水俣の真実に迫る不朽のドキュメントがいまここに蘇ります。クレヴィス (2021/9/7)
映画「MINAMATA―ミナマタ―」をみて、僕が思ったこと
出典:eiga.com
さっそく観てきた😊
ジョニー・デップがユージン・スミスに見えてくると同時に、庵野秀明にも見えてきた(スミマセン)😗#MINAMATAが呼び覚ます https://t.co/wcWx9LdHx7— 熊本ぼちぼち新聞(トミトコ) (@tomitokocom) September 23, 2021
【その後の水俣病】関連書籍・写真集で水俣病を学ぶ
水俣での経験に目を瞑ることは日本の将来から目を背けること等しい 2012年7月末、「水俣病患者の救済」を謳って2009年に成立した特別措置法に基づく救済認定の申請が締め切られた。公害病の原点であり、発生から60年近くが経過した水俣病は、これで本当に終わったのだろうか。40年にわたる取材を経たフォト&エッセイは、「何も終わっていない」水俣の過去と現在を写し出す…。千倉書房 (2012/10/25)
世界中を震撼させた写真集『MINAMATA』はいかにして撮影されたのか。「フォトジャーナリズムの巨星」の本格評伝。第19回小学館ノンフィクション大賞受賞。小学館 (2013/4/27)
伝説のフォトジャーナリスト最後の3年間。20歳の時、51歳のフォトジャーナリスト、ユージン・スミスと出会ったアイリーン・美緒子・スプレイグ。二人は、チッソの工場排水が引き起こす未曾有の公害に苦しむ水俣を目指した――。取材開始から十年。近代化の傷と、再生を勝ち取った魂の闘いに迫る大河ノンフィクション。文藝春秋 (2021/9/10)
公害病の中でも大規模で最も悲惨なものの一つ、水俣病。苦痛に絶叫しながら亡くなった人々や胎児性患者のことは世界的にも知られているが、有機水銀によるこの環境破壊の恐るべき全貌は、いまだに探りつくされてはいない。長年患者を診察してその実態の解明にとりくんできた一医学者の体験と反省は、貴重な教訓に満ちている。 岩波書店 (1972/11/22)
【水俣病の概要を知る入門書&ガイドブック】水俣病事件のあらましや補償制度など、水俣病の概要を掲載。また、水俣市周辺のカラー地図や写真を使って水俣病を学ぶための訪問先などを紹介しています。半日~2日間で歩いて回るモデルコースや、交通アクセスから情報源まで役立つ情報を満載しています。水俣、そのまわりの地域で一体何があったのか、何を教訓とすべきなのか。今なお残されている問題は何なのか。水俣病事件を考えるきっかけとなる一冊です。※2014年に発行した「水俣学ブックレットNo.12 水俣を歩き、ミナマタに学ぶ」の情報を大幅に更新した新版です。熊本日日新聞社 (2019/4/6)
公害という名の恐るべき犯罪、“人間が人間に加えた汚辱”、水俣病。昭和28年一号患者発生来十余年、水俣に育った著者が患者と添寝せんばかりに水俣言葉で、その叫びを、悲しみ怒りを自らの痛みとし書き綴った《わがうちなる水俣病》。凄惨な異相の中に極限状況を超えて光芒を放つ人間の美しさがきらめく。講談社 (1972/12/15)
石牟礼道子の思想に迫る、追悼特集。水俣に生きる人々の暮らしと病を見つめ続け、『苦海浄土』をはじめとする記念碑的作品を遺した石牟礼道子。その来歴と作品世界の広がりを再考し、追悼する。青土社 (2018/4/5)