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【東京の記憶】ホープ軒って阿佐ヶ谷にもあったよねえ
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阿佐谷ホープ軒
【ラーメン女子会?】老舗 阿佐谷ホープ軒について知る(森本聡子さんのブログより)
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吉祥寺「ホープ軒本舗」難波二三夫さんのヒストリー
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「第24回ラーメン女子会をはじめます。まず、ホープ軒というと野方ホープをイメージする人もいるかもしれないけど、違うんですよ~」
「更にいうと、世間的に有名な千駄ヶ谷のホープ軒とも異なります。※千駄ヶ谷ホープ軒は難波二三夫さんのお弟子さんである牛久保さんが独立させたもので、スープも麺もホープ軒本舗とは違ったものです」
「やっぱり皆んな一緒だと思うよね。笑 今から話す直系の店舗を理解するとホープ軒巡りが、より楽しくなるからしっかり聞いてね」ここからは、直系話
本店は(長男)が経営
ホープ軒本舗ー吉祥寺本店ー
その支店が
ホープ軒本舗ー大塚店ー
ホープ軒本舗ー杉並店ー
さらに
独立店舗の分家が
(長女)村山 ホープ軒
(次女)阿佐谷 ホープ軒
図にするとこうなる、3人兄弟で元気よく営業中
三鷹の工事でタレや麺は作っているから同じようになりそうなものだけどそれぞれの店舗で全然味が違うのだ❤️
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【東京背脂豚骨醤油の始祖】吉祥寺「ホープ軒本舗」難波二三夫さんと千駄ヶ谷「ラーメンの店 ホープ軒」牛久保英昭さん
新潟出身の二三夫さんは昭和10年ごろ、「貧乏軒」を始めた。大正期から流行していた、豚骨や鶏がらを使った支那そばを出す貸し屋台と考えられる。その後は職を転々とした。雑貨売り、港湾労働をへて、炭鉱のある九州へ。ただ、そこでラーメンを本格的に学んだわけではないようだ。「料理を身につけたのは戦時中でしょう」と公一さんは話す。
創業者の難波二三夫さんの長男で2代目の公一さん
歩兵連隊に所属。大陸に渡ると調理役を担った。料理を覚えたのはいいが、人生は流転する。現地で捕虜になり、運良く逃げて帰国した後は、中国人になりすまして飲食店を出した。戦後は吉祥寺で「ホームラン軒」を始めて店舗展開するが、借金の連帯保証人となり全てを失う。再出発したのは屋台から。「一からの希望」との意味を込めて出したのが「ホープ軒」だった。
「初めて白濁豚骨を出した時、オレも働いていたよ」。5杯目の芋焼酎のグラスを手にしたころ、ようやく白濁の話題になった。昭和40年ごろのある日、公一さんと父親は、スープを強火にしたまま他の仕事に集中してしまい、ぐつぐつと濁らせてしまった。「もったいない」と店に出したのが、白濁スープの始まりという。九州の白濁豚骨も久留米「三九」の同じような失敗がきっかけだ。
今に伝わる一杯は、茶色がかった豚骨スープが黄色の丼にたっぷりと入る。九州のそれより濃度はなく、千駄ケ谷ホープ軒のような背脂感もない。とはいえ、ウエーブがかった麺がスープをまとって味はしっかり。若き日の記憶もよみがえってきた。
初めのころは「濁っているのはスープじゃない。勉強しろ」と客から叱られたこともあった。一方、九州出身者から「九州の出か?」と言われたことも。公一さんにとって懐かしい思い出だという。
屋台時代のホープ軒は広がりをみせた。屋台の貸し出し業が成功し、最盛期は100台以上が営業した。屋台からは、千駄ケ谷ホープ軒、環七沿いで人気を誇った「土佐っ子」などが巣立った。そこからは「弁慶」など背脂チャッチャ系と呼ばれる、さらに濃厚なラーメンにつながっていく。
流浪の末、昭和53年に吉祥寺で店舗化したホープ軒本舗。東京豚骨しょうゆの発祥として、今はこの地にしっかりと根を下ろしている。
ホープ軒本舗(武蔵野市吉祥寺本町)
ラーメン屋台で始まり、長年親しまれてきた千駄ヶ谷のラーメン店「ホープ軒」(渋谷区千駄ヶ谷2、TEL 03-3405-4249)が1月21日で50周年を迎えた。
今も毎日、厨房に立つという、2025年2月で86歳になる牛久保英昭さん
国立競技場の真向かいに立つ黄色いビル。今年2月で86歳になる店主の牛久保英昭さんは今も毎日、厨房(ちゅうぼう)に立つ。「赤羽で屋台を始めてから丸15年と1日、休むことなく屋台を引き続けて、1975(昭和50)年1月21日に今の場所に店を出した」と振り返る。
1939(昭和14)年2月18日、浅草・千束生まれ。大戦中には大空襲に遭い他県に逃れるなどする中、卒業後は渋谷・宮益坂のパン店や錦糸町の駄菓子店などで生計を立て、20歳の時にラーメン屋台を引き始めた。そこから1カ月ほどで現「ホープ軒本舗」の貼り紙と出合う。「当時東京で20~30軒ほど屋台があったんじゃないかな。こっちの方が面白そうだなと思った」と、ホープ軒の屋台に乗り換えた。
牛久保さんが作り上げたのは、しょうゆ豚骨スープに背脂をのせた「背脂(チャッチャ)系」と呼ばれるラーメン。同じホープ軒の屋台でも「麺は一緒だったが、みんなスープは違った。屋台の小さな設備の中で作るから、そこに水を足したり追いだしをしたり…いろいろな工夫をして朝まで持たせる。個人個人みんな味が違った」と言う。そうした中、牛久保さんは中華そばに代表される当時主流だった透明なスープに対し、豚骨を白濁するまで煮出して作るスープを考案。銀座や赤坂などを経て、旧NHK社屋や新聞社などが集まる内幸町で屋台を続けた。
屋台を「卒業」し、店を構えることになった際、千駄ヶ谷を選んだ理由について、「すぐ近くのマンションに住んでいた。タクシーの運転手が車でも寄りやすい所がいいと思い、不動産屋に聞いたらここを紹介してくれた。競技場はあったが、車通りも人通りも多くなかったのが良かった」と話す。最初に借りたのは、3階建てのビルの1階部分。運転手や記者など「忙しい人たち」が主な客層だったこともあり、現在も残る立ち食いスタイルを選んだ。
「大抵の店が終わる時間帯になると、タクシーがいっぱい集まってきて、店の前が一つのターミナルのようになる。『あそこのラーメン屋の所に行けば運転手がいっぱいいる』となって、そこから乗って帰ろうとするお客さんもいたし、タクシーの運転手からしても、『ラーメンを食べられるならお客さんもまだ元気で居眠りもしない』とここに来る。そんな感じだった」
その後、1989(平成元)年に同ビルを購入し、隣の空き地に仮店舗を作り営業を続けながら、ビルを建て替えたという。現在のビルは4階建てで、2階・3階には着席スタイルのカウンターやテーブル、4階には製麺室を設ける。「2階に客席を作っても、(忙しい来店客が)上がってきてくれるかなと思って本当に心配だった。最初は町内会から仮のテーブルを借りてきて並べて様子を見ていたら、2階にもお客さまが入った。そうすると、やはり客層が変わってきた」と変化も訪れ、口コミなどもあり、徐々に客層が広がっていったと言う。
【ホープ軒 千駄ヶ谷店】
住所 東京都渋谷区千駄ケ谷2丁目33−9国立競技場の目の前に有る有名なホープ軒 千駄ヶ谷店に行きました。24時間営業なので色々な人々が来るようです。背脂が好きな人
にハマるラーメンでしょうか。チャーシューメンを頂きました🙇♀️🙇♀️🙇♀️ pic.twitter.com/uJ2XY6OEml— ふくろう (@Ebisusama11) December 10, 2024
ホープ軒 千駄ヶ谷店
【思い出】僕が一番食べたのは千駄ヶ谷、いや下高井戸「中華そば 木八(きはち)」だな
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関連エントリー→【背脂系とんこつ醤油】思い出の『中華そば 木八(きはち) 東京下高井戸本店』(2014年閉店)【東京・下高井戸】
これです、これ!また食べたい!
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