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世田谷代田駅付近から、井の頭通りをぼちぼち歩いて永福町へ
関連エントリー→【平成・東京】まるで学生時代のボロアパート、宿泊施設『やどかん』(世田谷代田)に泊まってセンチメンタルジャーニーへ
『やどかん』を出発。世田谷代田付近の高架から、小田原・片瀬江ノ島方面へと伸びる小田急線の線路が見える。
世田谷代田駅近くの東京農業大学のカフェ。「東京農大」という単語も懐かしい。
環7『なんでんかんでん』はこのへんだったろうか。この先、環状7号線から井の頭通りを曲がって歩く。
昔、このへんもクルマで走ったことがあるなあ。
京王線代田橋駅周辺です。一応近くに住んでいたのでなんとなく覚えていますが、世田谷代田、新代田、代田橋、ややこしいですね(笑)。
水道局の和田堀給水所。時代を感じさせる、趣のある建造物です。歩いているといろんなものが見えて楽しいですね。
井の頭通りと甲州街道が交差する、松原の交差点。甲州街道は春なのさ。
玉川上水公園です。スナックの女の子とここのベンチで座ってお話した他愛のない記憶を思い出す。
永福町へ続く道。自転車を漕いで走ったっけ。
この神田川沿いの遊歩道も、よくランニングしていたなあ。高井戸からちょうどこの地点までを往復していた。
ところで最近、自転車はここを走りなさいという表示が東京の道路にはあるようです。熊本もこうすればいいのに。
『永福町大勝軒』が見えました! 10年ぶりくらいかな?
20代前半の頃、このへんに住んでいました。このコインランドリーもよく使っていたなあ。
【ラーメン学】『大勝軒』には3つの系列がある
熊本の大勝軒はどの系譜ですか?
異なる歴史を持つ大勝軒の三大系譜
まず「丸長・大勝軒系」の系譜。こちらは長野出身の蕎麦職人が共同経営により荻窪で始めた「丸長」(昭和22年創業)がルーツ。共同経営者の一人だった故坂口正安氏が丸長から離れて「中野 大勝軒」(昭和26年創業)を創業。坂口氏の親戚で店長を任されていたのが、つけ麺の元祖として知られる故山岸一雄氏で、山岸氏は中野時代に賄いから「つけそば」を考案しメニューに加えた。その後、山岸氏は独立して「東池袋 大勝軒」(昭和36年創業)を開く。山岸氏の下から独立した店主も多いため、大勝軒と名のつく店で一番多いのは丸長・大勝軒系だろう。今もつけ麺(つけそば、もりそばとも)が看板メニューになっている店が多い。
次に「永福町大勝軒系」は、その名の通り永福町にある老舗「大勝軒」(昭和30年創業)の流れを汲む系譜。新潟出身で農家を営み、のちに上京して製麺業を営んでいた家で育った故草村賢治氏が創業した。たっぷりの煮干しとラードを使った醤油ラーメンが特徴で、麺の量も通常のラーメン店の倍ほど入っている。
主によく知られている大勝軒は上述した「つけ麺の丸長・大勝軒系」と「煮干しの永福町大勝軒系」であるが、もう一つ忘れてはならない大勝軒の系譜が、人形町で創業した中華料理店「大勝軒」から連なる系譜だ。その創業は丸長・大勝軒系よりも永福町大勝軒系よりも古い、1912(大正元)年。現在本店は珈琲店に業態を変えてしまったが、系列店は今も中央区を中心にいくつも営業を続けている。
【平成最後】『永福町大勝軒』を食べる
永福町大勝軒の創業者・草村賢治氏は、2018年8月3日に亡くなられたそうです。合掌。
出典:twitter.com
僕が注文するのはいつも「中華麺(生玉子付き)」です。
物凄い量です。最初ふつうにラーメンを楽しんだ後、途中、別皿の生卵に、スープ、醤油、お酢、ラー油を加え、つけ麵風の食べ方でアクセントをつけます。これが僕流だとずっと思っていたら、多くの方がそうしているみたいですね(笑)。
永福町駅も変わった~屋上庭園ふくにわ
まあ、いいや。
永福町駅前の交番です。昔、アパートの鍵を失くして、電話を借りたことがありました。携帯のない時代ですね(笑)。
屋上庭園ふくにわ。地元の人らしきお年寄りがくつろいでました。
永福町から眺める、新宿副都心のビル群。熊本に帰る前、新宿に行こうか・・・いや、渋谷をブラつくことにする。