1945年 – 熊本県・大分県境にB-29が墜落。米兵4人が殺害され、残り6人も九州帝国大学で生体解剖される。(九州大学生体解剖事件)
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【人体実験】九州大学生体解剖事件とは…?【人肉食】
熊井啓『海と毒薬』戦争末期、米軍捕虜生体解剖実験を基にした遠藤周作の小説を映画化。病院内の権力争い、手術ミスの隠蔽、おぞましい生体実験…リアルで生々しい手術シーン。二人の医学生を通し、人の死に無感覚になる戦争が生み出す狂気、非人間性、良心のありようをモノクロの鮮烈な映像で描く傑作 pic.twitter.com/0nj1SECZh5
— 魔の山 (@manoyama12) September 24, 2019
戦争末期の1945年5月、撃墜された米軍のB-29爆撃機が九州阿蘇山中に墜落し、生存搭乗員9名が捕虜となった。指令部からは、尋問のため機長だけ東京に送り、後は各軍司令部で処理すべしという指令が出され、西部軍司令部は裁判をせずに、残された8名を死刑と決定した。これを知った九州帝国大学卒で病院詰見習士官の小森卓軍医と石山福二郎主任外科部長(教授)は、生体解剖に供することを軍に提案し認められた。
生体解剖は1945年5月17日から6月2日にかけて行われ、軍から監視要員が派遣され、指揮および執刀は石山教授が行った。終戦後GHQが事件について詳しく調査し、九州大学関係者14人、西部軍関係者11人が逮捕された。首謀者の一人とされた石山教授は、生体解剖については否認したうえ、調査中に独房で遺書を書き記し自殺し、小森卓軍医は空襲のため死亡している。
1948年8月に横浜軍事法廷で、西部軍責任者2名、九大医師3名が絞首刑とされ、立ち会った医師18人が有罪となった。これらの手術が銃殺刑の代わりの、生存を考慮しない生体実験手術であることは、立ち会った関係者の目には明らかであった。後に作家遠藤周作は小説『海と毒薬』を著し、不可避的に立ち会わされた医学生や看護婦の目を通して、危機的状況の下では、惰性に流されて倫理感を喪失してしまう日本人の性質を描き出している。
進駐軍は生体解剖事件に加え、解剖された捕虜の肝臓を宴会で試食した疑惑についても、激しい取り調べを行った。偕行社病院長ら5人が米軍検察官の拷問に近い取り調べを受け、自白の口供書にサインをしたが、この人肉試食疑惑は証拠不十分で5人とも無罪になっている。人肉試食事件は功を急いだ米軍調査官のでっちあげとされている。
【関連書籍】遠藤周作『海と毒薬』ほか、当事者の著書など
【百年ニュース】1923(大正12)年3月27日(火) 小説家の遠藤周作が東京の北大塚で誕生。父は第三銀行/安田銀行の銀行員。幼少期は満州で過ごす。12歳でカトリック夙川教会で洗礼を受ける。慶應義塾大学文学部卒業後フランスに留学。1955(昭30)『白い人』で芥川賞受賞。代表作は『海と毒薬』『沈黙』。 pic.twitter.com/mEmLYdCn9h
— 吉塚康一 Koichi Yoshizuka (@KoichiYoshizuka) March 26, 2023
生きた人間を生きたまま殺す。
何が彼らをこのような残虐行為に駆りたてたのか? 終戦時の大学病院の生体解剖事件を小説化し、日本人の罪悪感を追求した問題作。
戦争末期の恐るべき出来事――九州の大学付属病院における米軍捕虜の生体解剖事件を小説化、著者の念頭から絶えて離れることのない問い「日本人とはいかなる人間か」を追究する。解剖に参加した者は単なる異常者だったのか? どんな倫理的真空がこのような残虐行為に駆りたてたのか? 神なき日本人の“罪の意識”の不在の無気味さを描き、今なお背筋を凍らせる問題作。
唯一の関係者が綴る恩師の冤罪と事件の真相
敗戦間際、米軍B29搭乗員捕虜8名が九州帝大での生体実験手術で死亡した。震撼の事件を精密に記録した名著を後世のために再刊行
「戦争も末期になると、敵も味方も互いに異常なほど狂気に支配されることをこの事件から教えられました。戦争ほど人間の悲惨と愚劣をみせるものはほかにないと思いました」(「追記」より)
――丹念な取材調査と入手困難な資料に裏打ちされた事件手記の決定版。混乱する軍の指揮系統や責任回避の姿勢、GHQによるBC級戦犯裁判の拙速さなどが明らかになる。B29機長へのインタビューも掲載。
すでに述べたことだが、読者の誤解と混乱を避けるために「生体解剖」の言葉の意味を再び説明しておかねばならない。vivisection(生体解剖)とは人間を生きたまま解剖することで、解剖学で普通にいう「屍体解剖section」とは本質的に意味を異にする。
解剖関係の医師が臓器を調査研究するため屍体を解剖したり、または屍体の臓器を採取するのが、普通にいう「解剖」つまりsectionである。これは手術もしくは実験手術が生きている生命に対して行なわれるのと本質的に異なり、厳密に区別されなければならぬ重要な問題である。
ところが、戦犯法廷における検事側は宣伝効果をねらう戦術か、手術も解剖も一緒にして「vivisection」という言葉を使い、日本の報道関係も「生体解剖」として猟奇的興味をいやが上にも煽り立てた。このため、解剖学教室の関係者の容疑事実である「屍体解剖section」が「生体解剖vivisection」であるかのように受けとられてしまったのである。(本文より)
未発表だった軍事裁判記録と当事者からの直接取材に基づいて明らかにした衝撃のドキュメント。毎日新聞出版 (1980/1/1)
軍の命令か、医の倫理の逸脱か――。終戦直前の1945年春、名門大学医学部で行われたおぞましい「実験手術」で米軍捕虜8人が殺された。医師側の首謀者として死刑判決(のち減刑)を受けた鳥巣太郎氏(当時、九大助教授)の姪が、戦犯裁判記録のほか、知られざる再審査資料、親族の証言などを基に、語り得なかった真実を明らかにする。
「戦争は、人間を容易に「狂気」に掻き立てる」「このドラマは今を生きる私たちにも重いテーマを突きつける」
熊野以素『九州大学生体解剖事件』が原案のドラマ、「しかたなかったと言うてはいかんのです」(妻夫木聡・蒼井優出演)が文化庁芸術祭優秀賞を受賞しました。☞ https://t.co/NxN2nZ52YD pic.twitter.com/2BaG64PdSL
— 岩波書店 (@Iwanamishoten) December 26, 2021
【熊本県・阿蘇】アメリカ兵を襲った村人たち
出典:www.fnn.jp
「アメリカ兵を襲った村人」宇都宮 シズ子さん(熊本県・阿蘇)
【B29墜落 “敵兵”と遭遇した村 ~熊本県・阿蘇~】
太平洋戦争中、米軍のB29による日本本土への爆撃は、大都市だけでなく地方の都市をも焼き払った。はるか上空を飛ぶ巨大な爆撃機は恐怖と憎悪の対象だった。
昭和20年(1945年)5月5日、グアムをたったB29の編隊が九州北部を爆撃。帰路についたB29は熊本県阿蘇地方の上空で、日本の戦闘機の攻撃を受け1機が墜落。乗り組んでいた11人の米兵たちは落下傘で脱出した。
高度を落とし墜落するB29の巨大な機体と、降下してくる米兵の落下傘を、多くの村人たちが目撃した。そして人々は身近にある鎌や竹やり、猟銃を手に米兵を追った。
当時、阿蘇地方からも多くの若者が出征、少なからぬ人々が夫や息子を戦場でうしなっていた。そして本土決戦が近いと叫ばれ、銃後を守る女性や子供達も「鬼畜米英」と戦うよう厳しい軍事訓練が課されていた。その「敵」が突然、目の前に現れたのだ。
米兵のひとり、オエニック伍長は抵抗する態度を一切示さなかったにも関わらず村人に殺害された。ジョンソン伍長は逃走を試みたものの追い詰められ拳銃で自決した。B29から脱出した11人のうち4人が死亡、7人が殺される寸前で捕虜となった。
村の人たちたちは英雄扱いされたが、終戦により一転。GHQは事件の全容解明のため3年がかりで徹底的に村人を尋問している。
【1945年5月5日】日本から飛来した風船爆弾の不発弾がアメリカ・オレゴン州で爆発し、民間人6人が死亡
1945年 – 第二次世界大戦: 日本から飛来した風船爆弾の不発弾がアメリカ・オレゴン州で爆発し、民間人6人が死亡。第二次大戦でのアメリカ本土での唯一の死者となる。
1945年、昭和20年5月5日
風船爆弾日本から風船爆弾がアメリカ オレゴン州ブライまで飛来し、木に引っかかっていた風船爆弾の不発弾に触れたピクニック中の民間人6人(妊娠中の女性教師1人と生徒5人)が爆死した。 pic.twitter.com/LocMts51ad
— J.WH (@JPNHistoria) May 4, 2024
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