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【1987年から死の直前まで】手塚治虫、未完の遺作3作品を読む
手塚治虫は1987年から死の直前まで、『グリンゴ』『ルードウィヒ・B』、および『ネオ・ファウスト』の漫画3作の雑誌連載を続けていたが、いずれも未完に終わった。その中でも最後に描かれたのは、『ネオ・ファウスト』の原稿だった。
【日本人とは?】日本人のアイデンティティを問おうとした『グリンゴ』(1987/08/10-1989/01/25)
無性に手塚治虫読みたくなって
これから遺作3作品を読み直して、新しい方から過去へと辿るか
しかしグリンゴ、相撲がどうなるのか
日本はどうやってあんな怪物と戦うのか
答えを教えてもらえないのが残念グリンゴ:https://t.co/2lXLvwycqY(JP) 手塚治虫 公式サイト https://t.co/ap4bjVi4kR pic.twitter.com/nNNQRDgWV4
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自画像もすでにガンに侵されやつれた姿に…。手塚治虫が最後にたどり着いた「日本人とは?」の答えを知りたかった。
出典:『グリンゴ』手塚治虫
1987/08/10-1989/01/25 「ビッグコミック」(小学館) 連載
手塚治虫の遺作のひとつです。グリンゴはスペイン語で「よそもの」という意味です。手塚治虫は、雑誌「ビッグコミック」には、その創刊以来、手塚マンガの新境地を開拓するような意欲的な作品を多く発表してきました。そしてこの作品でも、「日本人のアイデンティティとは何か」を商社マン・日本(ひもと)の姿を通して描こうとしていたのです。マンガ表現の面でも新しい試みにチャレンジしており、枠線を引くのに定規を使わずにフリーハンドの柔らかい線を使い、また、連載中のトビラ絵は、『シュマリ』の時と同じように、つなげるとひとつの話ができあがる仕組みになっていました。主人公の日本が巻き込まれるゲリラによる誘拐事件は、1986年11月にフィリピンで起きた、日本人商社マンの誘拐事件がモデルになっていますが、その被害者であった若王子信行氏が、手塚治虫と同じ1989年2月9日に亡くなられたのは不思議な偶然です。
【ベートーヴェン伝記】「マンガの神様」が「音楽の聖人」を描く『ルードウィヒ・B』(1987/06-1989/02)
次はこれだな
未完だからと読まずにいたんだよねルードウィヒ・B:https://t.co/2lXLvwycqY(JP) 手塚治虫 公式サイト https://t.co/H1faooE4E7 pic.twitter.com/6b8VkkSiKL
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星野之宣、諸星大二郎、みなもと太郎、坂口尚、倉多江美!!!
1987/06-1989/02 「コミックトム」(潮出版社) 連載
手塚治虫は、作品を執筆するときに、しばしばクラシック音楽を大音量でかけていました。中でも、大好きだったのがベートーヴェンの曲だったといいます。 雑誌「コミックトム」で、大作『ブッタ』の連載が終了したあと、次は何を連載しようかという話になり、やはり次回も伝記ものでいこうということで、ウォルト・ディズニーなど何人かの候補があがった中で、結局、ベートーヴェンに決まりました。 それには、1984年に封切られたモーツァルトの伝記映画「アマデウス」に刺激された部分もありました。 タイトルを、ルードウィヒ・ヴァン・ベートーヴェンを略して「ルードウィヒ・B」としたあたりにも「アマデウス」の影響がうかがえます。 物語の中でモーツァルトの言う「新人というのは自分で一番書きやすい作品をいそいそと持ってくる。だがこっちからこういうものを書けというテーマを与えるとたいてい書けずに閉口する」というセリフは、日ごろ、手塚治虫が新人マンガ家に対して抱いていた気持ちでもありました。
【3度目のファウスト】死にたくない!人生をもう一度やり直したい!『ネオ・ファウスト』(1988/01/01-1988/11/11・1988/12/09-1988/12/16)
『ルードウィヒ・B』の次は『ネオ・ファウスト』を読む予定、未完の遺作3作品の中でも、これが絶筆寸前まで書いていた作品らしい
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絶筆となりペン入れ完成したページから突然下書きのページに変わる様は、まるでテレビ版エヴァの最終話のよう…?!
1988/01/01-1988/11/11・1988/12/09-1988/12/16 「朝日ジャーナル」(朝日新聞社) 連載
1984年に制作発表した劇場用アニメーション『ファウスト』が事情により制作できなくなり、黒澤明監督が映画『影武者』が製作できない思いを絵コンテともいうべき絵を描くことによって表現したように、手塚治虫もマンガを描くことによってかわりに作品化させようとしました。それがこの『ネオ・ファウスト』で、手塚治虫が、週刊誌「朝日ジャーナル」に自ら企画を持ちこみました。 しかし突如おそった胃ガンという病魔には勝てず、第2部を2回掲載したところで未完となってしまいました。 手塚治虫は、1950年に、描き下ろし単行本として『ファウスト』を発表しており、その後、新「ライオンブックス」シリーズの中の1編として、日本の時代物に翻案した中編『百物語』(1971年)を発表。これが「ファウスト」の3度目のマンガ化でした。
【手塚治虫全集】次、何読む?
次は「陽だまりの樹」か「ミッドナイト」を読もうかな🧐
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晩年
1980年代では、幕末から明治維新の時代に自身のルーツをたどった『陽だまりの樹』(ビッグコミック)や、アドルフ・ヒトラーやゾルゲ事件などを題材に一般週刊誌の週刊文春で連載した『アドルフに告ぐ』など、青年漫画で新たな代表作を手がけることになる。「陽だまりの樹」は第29回小学館漫画賞、「アドルフに告ぐ」は第10回講談社漫画賞一般部門を受賞した。
1985年にNHK特集の取材制作に応じた時期でも、1日にわずか1~2時間の睡眠で連載漫画やアニメーション制作をこなしていた。「丸が上手く描けないんだ」と身体能力の衰えを認めつつも、取材陣に対し「(体の老化を乗り越えられれば)あと40年(100歳)は描きますよ、僕は。アイディアだけは、もうバーゲンセールしてもいいぐらいあるんだ」と述べ、創作活動への強い意欲を見せた。
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