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リクルート事件~バック・トゥ・1989
リクルート事件
リクルートのグループ企業「リクルートコスモス」の未公開株が政治家や官僚らにばらまかれた事件。1988年に川崎市助役への株譲渡が発覚したのを契機に、政界の実力者への譲渡が次々に表面化した。 事件をきっかけに竹下登元首相は退陣に追い込まれた。譲渡先は政界、旧労働・文部両省、NTTの4ルートにまたがり、東京地検は藤波孝生元官房長官ら政治家2人を含む計12人を起訴。いずれも執行猶予付きの有罪判決が確定した。贈賄側の江副浩正リクルート元会長の公判は100人以上の証人が出廷し、13年3カ月を要した。
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リクルートは何がすごいのか?~江副浩正の功罪、リクルートのDNA
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江副浩正 えぞえ-ひろまさ
1936-2013 昭和後期-平成時代の経営者。
昭和11年6月12日生まれ。「東大新聞」の広告担当だった経験をいかして,昭和35年東大卒業と同時に求人広告専門の大学新聞広告社(現・リクルート)を設立。高度経済成長下に情報企業群をそだて,教育事業,不動産業にも進出。63年不動産会社「リクルートコスモス」の未公開株を政財官界関係者に大量譲渡したリクルート事件が発覚,平成15年有罪が確定。のち江副育英会理事長としてオペラの普及や若手芸術家の支援にたずさわった。平成25年2月8日死去。76歳。大阪府出身。出典:kotobank.jp
就職せずに「東大新聞専門の広告代理店」を創業
こうして、江副さんは月々莫大なアルバイト収入を得るようになり、就職するのがバカバカしくなったのか、1960年3月、そのまま東大新聞専門の広告代理店を作って独立を果たします。今でこそ起業は珍しくもありませんが、当時にしてみれば大変な決断でした。東大での成績は良くなかったようですが、それでも東京大学を出ればそれなりの人生が約束されている。それを投げうって……まあ、ビル・ゲイツだって、ハーバードを中退して一大IT企業を築いたわけですから、江副さんも情報産業の分野でそれをやってのけたということなんでしょう。
広告取りに始まった江副さんが次に始めたのが『就職情報』の発刊でした。学生はいちいち就職課に行って求人情報を見なければいけなかったのを、雑誌にまとめて掲載するようにしたわけです。
住宅情報や旅行情報へ手を広げていく非凡さ
ここで江副さんが非凡だったのは、自分の会社は単に学生に就職情報を提供するにとどまらず、情報を扱っているのだと気づいたことです。自分の仕事は情報産業である──。そうなれば、扱うものも就職情報にとどまらない。マイホームを持ちたい人たちに向けて『住宅情報』を、海外旅行をしてみたい人には『AB-ROAD』を創刊して、不動産業者や旅行会社を一軒一軒回る不便さを一気に解消したのです。
こうして、今では「えっ、これもリクルートだったの?」というほど多くの情報誌を出すようになったのですが、考えてみれば、これらの情報は、本質的にみな広告なんですね。従来はタダで消費者に届けていた広告が、それを集めて雑誌にすれば有料で売れる──このうまい仕組みを見つけた江副さんは、まさにタダ者ではなかったというしかありません。
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創業者が去っても発展しつづける「個を生かす」企業文化
【土屋】
リクルートの発展が続いている理由は、江副さんが作り上げた企業文化にあるでしょう。江副さんは学生時代に起業し、どこかの会社に就職することはありませんでした。大企業に勤めると、大企業の考え方が染み付いてしまう。「会社はこうあるべきだ」という既成概念にとらわれて、「自分が理想とするもの」を目指さなくなるでしょう。だから企業での勤務経験がなかったことがとても良かったんです。白紙の状態から自分が理想とする会社を作り、経営とは何かを突き詰めて考えられました。
その結果、それまでの日本の企業にはなかった斬新な考えで組織を作り上げた。一言で言えば「個を生かす」組織です。
【馬場】
手を挙げれば、一社員でも新規事業をどんどん任せてもらえる企業ですね。【土屋】
そう、社員はリクルート社内で起業できます。資金が必要なら投資するし、人材も提供してくれる。権限は社員に与える一方、リスクは会社が背負う仕組みができていました。優秀な人を採用し、その人の能力がフルに発揮できれば会社の利益になる。創業当初から徹底して、その単純な原則を追求しました。多くの大企業のように「会社の利益のために社員をどう管理するか?」なんてことを考えていないのです。会社を「社員一人ひとりが輝き、伸び伸びと力を発揮する場所」と捉えていました。
【馬場】
「38歳定年制」なんて、他の企業にはない制度でしょう。当時から明確に、社員が高年齢化したらダメになるという考えを持っていた。【土屋】
平均年齢を若くした方が、新しい考えがどんどん入り、会社は活力にあふれ挑戦的でいられますからね。【馬場】
多くの企業がリクルートの組織経営を真似できないのは、江副さんのように、大胆になりきれないからではないでしょうか。
↓上記の馬場氏・土屋氏、元社員による渾身の評伝です。
自ら機会を創り出し 機会によって自らを変えよ
これはリクルートの創業者である江副浩正さんが社長だったころの社訓である。リクルートの卒業生の多くが大切にしている言葉だ。
で、おまえはどうするつもりなの?
リクルートで使われていたキャッチフレーズのひとつが、「よい子、悪い子、元気な子」というもの。冗談のようにも思えますが、きわめて大真面目に使われていたのだとか。つまりは「雑草のようなメンタリティーで伸びないと強くなれない」という考え方です。
(中略)
つまり「よい子、悪い子、元気な子」になるためには、失敗していつまでも落ち込んでいてはいけない。だから、たとえばなにか失敗をして、そのことを先輩や上司に謝ったとしても、「そんなものはいらん。で、おまえはどうするつもりなの?」と必ず問われるのだそうです。
達成するヤツとしないヤツに大した差はない
目標を達成できる人と達成できない人の間には、大きな実力や努力の差があると思われがち。ところがリクルートでは、達成・未達成はほんのわずかな差でしかないと考えるのだといいます。現場では「あと一歩登れば、海が見えたのに」というフレーズが聞こえてくることがあったそうですが、これは、「達成するヤツもしないヤツも、大した差はない」ということ。達成するヤツは、目標ギリギリのときに、最期まで登り切ることをやめなかっただけ。でも多くの人間が、本当はゴールまであと一歩なのに、そこで最後の一歩を登ることをやめてしまう。
↓元社員がリクルートの“成長のDNA”を語る。
――どうしてそこまでプレゼントにこだわりを持っていたのでしょうか。
【土屋】
原点の1つには貧しい幼少時代があったと思います。江副さんが生まれたのは1936年。5歳の時に日本は太平洋戦争に突入し、彼は生まれ育った大阪から1人で佐賀へ疎開しました。住む先を転々とし、食べ物にも窮する状況で、中学・高校時代は貧しさからみじめな思いをしていたそうです。江副さんはお金で苦労したため、お金が手に入ったときは、贈り物として周りに還元しようと思ったのではないでしょうか。
【馬場】
もちろん、お金を持っているから贈ってやろうという傲慢さではなく、純粋に人を喜ばせたかったんでしょうね。口下手な人だったので、お金や手間をかけることが人に対する誠意の表明だったのです。【土屋】
事業が成功してさらにお金が入るようになると、プレゼントの金額も上がり、常識を超える贈り物も多くなってきました。未公開株をばらまくのも、その一例だったのだと思います。【馬場】
その贈り物好きの性格が災いし、リクルート事件に繋がったのは否定できません。ただ、あれを含めて贈り物は純粋な好意であり、江副さんの魅力を語る上では欠かせないものなのです。
↓江副浩正氏、本人著。
世代交代~遥か平成元年への旅
出典:gqjapan.jp
関連エントリー→『昭和最後となる一年』~バック・トゥ・1988(遥か昭和63年への旅) 出典:ja.wikipedia.org
↓1987年「ダイアモンドダストが消えぬまに」。
↓1988年「Delight Slight Light KISS」。
↓そして、1989年「LOVE WARS」。僕は勝手にバブル3部作と呼んでます。