平成の終わりと違い、昭和は予告もなく終わっちゃったんですよね
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今の時代につながる萌芽(ほうが)を探すよ
二児の母として、韓国地方都市で暮らす金賢姫~バック・トゥ・1987
大韓航空機爆破事件(だいかんこうくうきばくはじけん)は、1987年11月28日に大韓航空の旅客機が、偽造された日本国旅券を使い日本人に成り済ました北朝鮮の工作員によって、飛行中に爆破されたテロ事件である。
君は知らないだろうな
・・・その大韓航空機爆破事件の実行犯とされる女スパイ・金賢姫(キム・ヒョンヒ)、彼女への最近のインタビュー記事が、実に感慨深かった
現在、二児の母として、韓国地方都市で暮らす金賢姫さん。
※「文藝春秋」2017年12月号より
黒田 日常生活はどうですか。依然、不便でしょうね。金 そうですね……。でも今は穏やかに暮らしていますし、子どもたちも無事大きく育ってくれました。
黒田 お子さんたちはいくつになりましたか。
金 上の男の子は高校2年生、下の女の子は中学3年生です。2人とも学校で第二外国語として日本語を勉強していて、たまに私が教えてあげたりもしています。思春期の子どもは本当によく食べるから、今の私は毎日、料理することで精いっぱい。食卓にお肉が並んでいないと、「食べる物がない」と言うんですよ(笑)。
出典:bunshun.jp
穏やかで幸せな日常みたいだね
大事件の犯人なのに、今は普通に生活されているんですか?
北朝鮮では女優経験もあるという美人スパイだった。
※「文藝春秋」2017年12月号より
黒田 法廷に立たされて1989年に一審で死刑判決を受けた時はどのような心境でしたか。金 あまりにも大きな罪を犯しましたから、死刑への恐怖はありませんでした。「早く死んで終わらせてほしい」とばかり考えていました。
何よりも辛かったのは、法廷で遺族を間近に目撃して、彼らの悲しみの叫びを聞いた時でした。「私の息子を返せ」「私の夫を返せ」「一緒に死んでやる」……こんな私が生きていて良いはずがないと思っていました。
黒田 ところが、その翌年、盧泰愚(ノテウ)大統領の特別赦免(特赦)が出て、金さんの死刑執行は免除となりました。金さんはいわば「北の国家テロの生き証人」として生かされることになった。
金 再び生き返ることが嬉しくもあり、このまま生き残る自分が惨めでもあり、これから罪人として一生を過ごしていくことに暗澹たる思いがありました。
出典:bunshun.jp
※「文藝春秋」2017年12月号より
黒田 この30年間、精神的にも肉体的にも大変だったと思います。それでも、こうして気丈に振る舞っている金さんの一番の心の支えは、何だったのでしょうか。金 死刑判決を受けて、赦免され、私は大韓民国の国民になりました。北の工作員・金賢姫は一度死に、テロを世界から無くすため、北の蛮行を明らかにするため、私は「生き証人」として、生き返ったのです。
出典:bunshun.jp
どことなく、弘兼憲史のマンガに出てきそうな美人?
※「文藝春秋」2017年12月号より
黒田 当時、金さんの“告白”によって、日本にも思わぬ余波がありました。著書をはじめ北朝鮮の実態についてさまざまな証言をしたことで、日本人拉致問題の真相の一端が明らかになったのです。特に、金さんに「日本人化教育」を施した李恩恵という存在が分かったことは極めて大きな出来事でした。李恩恵は、1978年に拉致された田口八重子さん(失踪当時22)だったからですね。金 私は工作員として訓練を受けていた1981年から約1年間、李恩恵先生こと田口八重子さんと2人で生活していました。日本人としての立ち居振る舞いは、すべて田口さんから学びました。思い出もたくさんあります。石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」などの流行歌を一緒に聴いたり、夜中に“自由主義”と言ってこっそり2人で招待所を抜け出し街に出かけたり……。
出典:bunshun.jp
夜中に“自由主義”と言ってこっそり2人で招待所を抜け出し街に出かけたり・・・ちょっとだけ楽しそうだね
※「文藝春秋」2017年12月号より
黒田 非常に聞きにくいのですが、子どもたちは、お母さんが誰であるかということは知っていますか。金 ――まだ知らないんです。今まであえて話してきませんでしたし、訊かれることもありませんでしたから。でも、時々北朝鮮の情勢について講演することもあるので、子どもたちは、薄々「お母さんは北に詳しいし、家族がいるのかな」と推察しているみたいです。
いつかは話さなければいけませんよね。でも、今は2人とも受験勉強が大変だし、2人が大学生になって落ち着いたら、すべてを明かそうと考えています。
出典:bunshun.jp
子どもたちまで十字架を背負うことにならないといいけど・・・
※「文藝春秋」2017年12月号より
黒田 あの事件から今年(2017年)11月がちょうど30年ということで今回はインタビューを御願いしましたが、韓国語、日本語、どちらでやるかを事前にお尋ねしたところ「日本語でやりたい」と言っていただきました。相変らずお上手ですが、今も日本語の勉強はなさっているのですか。金 いいえ。日本語を聞く機会は普段ありませんから、単語などは結構忘れちゃっていて。勉強というほどではありませんが、日本語の本を読むことはあります。村上春樹さんの小説は好きですね。
出典:bunshun.jp
着々と昭和の終わりが近づいてくる・・・~遥か昭和62年への旅
新しい時代へ、国鉄分割民営化
国鉄分割民営化(こくてつぶんかつみんえいか)とは、中曽根内閣が実施した行政改革である。日本国有鉄道(国鉄)をJRとして、6つの地域別の「旅客鉄道会社」と1つの「貨物鉄道会社」などに分割し、民営化するもので、これらの会社は1987年(昭和62年)4月1日に発足した。
このほか、同時期に日本電信電話公社や日本専売公社を含めた三公社の民営化が自由民主党によって進められた。
タバコももともと国の事業、収入源だったんだからね
昭和を象徴する人々・・・1月梶原一騎 (漫画原作者)、7月 石原裕次郎 (俳優)、8月澁澤龍彦 (作家)が亡くなる
石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年(昭和9年)12月28日 – 1987年(昭和62年)7月17日)
慶應義塾大学在学中、慎太郎の芥川賞受賞作『太陽の季節』の映画化の端役で映画デビュー。続いて製作された、同じく慎太郎原作の映画化作品『狂った果実』では、後に妻となる北原三枝を相手役に主演。その後は歌手・俳優として活躍し、主演映画が連続ヒットし、瞬く間に昭和を代表する日本最高のスターの一人となった。1963年に石原プロモーションを設立し、1970年代以降は映画から離れ『太陽にほえろ!』、『大都会』などテレビドラマで活躍した。
デビュー前から放蕩生活に明け暮れたタフガイだが、ケガや病気に苦しんだ一生で、52歳で肝細胞癌のため死去。墓碑には妻直筆で次のような言葉で綴られている。「美しき者に微笑を、淋しき者に優しさを、逞しき者に更に力を、全ての友に思い出を、愛する者に永遠を。心の夢醒める事無く。」出典:ja.wikipedia.org※一部編集
病気しても隠れてタバコ吸ったり酒飲んだりしてたらしいもんね
今にして思えば・・・そりゃ早死にしても仕方ないよなあ
平成の世を騒がす、宗教団体「オウム真理教」が設立
1987年(昭和62年)7月(麻原彰晃32歳)には「オウム神仙の会」を「オウム真理教」に改称し、布教活動を展開。自著、オカルト雑誌への広告記事を利用し徐々に信者を獲得していった。同年、日本テレビ『鶴ちゃんのプッツン5』に超能力者として出演。
後から思えば、ああなんか「ムー」にそんな広告があったなと・・・
任天堂のファミリーコンピュータが国内出荷累計1,000万台を突破
3月23日 – 任天堂のファミリーコンピュータが国内出荷累計1,000万台を突破。
僕らの世代はちょうど分岐点だよね
世界的に大きな文化となっています
うまくいけば先駆者の一人になったかもしれないし、または、ただの中年ニートだったかもしれない(笑)
9月マイケル・ジャクソンが後楽園球場で来日コンサート、11月後楽園球場の解体工事始まる
9月10日 – マイケル・ジャクソンが後楽園球場で来日コンサート。
10月13日 – 後楽園球場のパ・リーグ最後の公式戦、日本ハム-近鉄戦が行われる(10月18日にはセ・リーグ最後の公式戦、巨人-広島戦も行われた)。
11月9日 – 後楽園球場の解体工事始まる。
東京のど真ん中、後楽園球場から東京ドームへ
9月おニャン子クラブが解散、11月BOØWY、渋谷公会堂にて解散宣言
8月31日 – フジテレビ系列の帯バラエティ番組『夕やけニャンニャン』が同日の生放送を以てついに放送終了し、2年半の歴史に幕を下ろす。
9月20日 – おニャン子クラブが解散。
12月24日 – ロックバンドBOØWY、渋谷公会堂にて解散宣言。
僕も行こうかどうしようか迷って・・・結局、行かなかったんだよね
今思えば、行けばよかった(笑)
1987年8月22日から23日にかけて熊本県阿蘇山のふもとでおこなわれた、オールナイトの野外ロック・フェスの嚆矢とも言えるイベント『BEATCHILD』。ブルーハーツ、レッド・ウォリアーズ、BOØWY、ハウンド・ドッグ、ストリート・スライダーズ、尾崎豊、渡辺美里、佐野元春、岡村靖幸、白井貴子と、当時のメジャー・ロックの一線級が勢ぞろいしたラインナップ、72000人という観客の多さもさることながら、このイベントを伝説としたのが、イベントの開始前からほとんど絶え間なく降り続けた土砂降りの豪雨、いや「爆雨」である。文字通りの泥沼と化した会場、雨を避けるスペースもなく、今のフェス客のような雨具の備えさえもない。ただの野外コンサートのつもりで気軽に来てみれば、そこは爆雨と寒さ、水浸しになった会場という地獄が待っていたわけだ。
出典:realsound.jp
↓3月に登場した辛口ビール「アサヒスーパードライ」。落合信彦、「飲むほどにDRY、辛口・生。」
【僕の1987年】『ノルウェイの森』を読みながら、東京での青春を妄想する
出典:mainichi.jp
この前の数年間に比べると、この年は、邦画やアニメで強烈なのが少ないんだよね
『マルサの女』とか『私をスキーに連れてって』とかはあったけど
この年のエンタメ、個人的には村上春樹『ノルウェイの森』の大ヒットだよね
自慢じゃないけど、持っている単行本は初版じゃないかな?
村上自身が書いた「100パーセントの恋愛小説」というキャッチコピーについて本人は、「僕はそのときほんとうは『これは100パーセントのリアリズム小説です』と書きたかったのだけれど(つまり『羊』や『世界の終り』とはラインが違いますということです)、そんなことを書くわけにもいかないので、洒落っけで『恋愛小説』というちょっとレトロっぽい『死語』を引っぱり出してきたわけです」。
また、本書がベストセラーになったことについて、「小説が十万部売れているときには、僕はとても多くの人に愛され、好まれ、支持されているように感じていた。でも『ノルウェイの森』を百何万部も売ったことで、僕は自分がひどく孤独になったように感じた。そして自分がみんなに憎まれ嫌われているように感じた」と述懐している。
さらに、「この話は基本的にカジュアルティーズ(うまい訳語を持たない。戦闘員の減損とでも言うのか)についての話なのだ。それは僕のまわりで死んでいった、あるいは失われていったすくなからざるカジュアルティーズについての話であり、あるいは僕自身の中で死んで失われていったすくなからざるカジュアルティーズについての話である」という。
主人公が神戸市出身であること、大学に入学した年が村上と同じ1968年であること、東京の私立大学で演劇を専攻していること、主人公が入っていた寮が村上も入寮した和敬塾をモデルにしていることなどから、「自伝的小説」と見られることもあるが、本人はこれを否定している。
東京の私大を志望していたから、『ノルウェイの森』を読みながら、東京での青春を妄想したもんですよ
受験勉強への大きなモチベーションになった作品でもある
もう一度、あの頃に戻れるなら、もう少し計画的に人生に挑みたいものだよ(笑)
↓ついに『ノルウェイの森』も電子書籍化。上下巻合本として、赤と緑半々の表紙デザインが素敵です。
↓「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日・・・こんなベストセラーもありましたねえ。