[レビュー] 村上春樹はなぜ僕らに刺さるのか?『職業としての小説家』~その創作活動について考える(その3)

サブカル
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村上春樹はなぜ僕らに刺さるのか?
村上春樹ファンは老若男女いますが、その作品は特に、世界中のティーンを魅了する力を持っているようです。
なぜでしょう?

自分のために書いている、というのはある意味では真実であると思います。
(中略)
またそこには「自己治癒」的な意味合いもあったのではないかと思います。

『職業としての小説家』 第十回 誰のために書くのか?

『風の歌を訊け』から始まって、最初の頃はずっと一人称小説だったよね。
さらに、初期のキャラクターには名前もなかった。
「『職業としての小説家』  第九回 どんな人物を登場させようか?」でそのへんは触れていますね。
照れみたいなものがあったそうだね。
でも、経験をつんで、スタイルも少しずつ変化するにつれ、徐々に登場人物も多くなり、名前のついたキャラクターも出てきた。
確か、キャラクターに最初に付与された名前は、「渡辺昇(ワタナベ・ノボル)」だったよね。
これは実は安西水丸さんの本名ですね。
安西水丸さんは村上作品の表紙や挿絵なんかも描いているイラストレーターね。
面白いよね。

多くの場合、僕が進んで記憶に留めるのは、ある事実の(ある人物の、ある事象の)興味深いいくつかの細部です。
(中略)
「あれっ」と思うような、具体的に興味深い細部です。できればうまく説明つかないことの方がいい。理屈と合わなかったり、筋が微妙に食い違っていたり、何かしら首を傾げたくなったり、ミステリアスだったりしたら言うことはありません。そういうものを採集し、簡単なラベル(日付、場所、状況)みたいなものを貼り付けて、頭の中に保管しておきます。
(中略)
僕はどちらかといえばただ頭に留める方を好みます。ノートをいつも持ち歩くのも面倒ですし、いったん文字にしてしまうと、それで安心してそのまま忘れてしまうということがよくあるからです。頭の中にいろんなことをそのまま放り込んでおくと、消えるべきものは消え、残るべきものは残ります。僕はそういう自然淘汰みたいなものを好むわけです。

『職業としての小説家』 第五章 さて、何を書けばいいのか?

このへんは、おそらく重要なポイントだよね。
僕らの人生の周辺にある、さまざま事象の中で、なんかひっかかるものを捉えて、それを小説の題材にしている。
理屈じゃなくて、誰にでもひっかかる何か・・・ここが村上春樹の小説が世代を超え、地域を超えて、人々に刺さる理由じゃないかな?
そうかもしれませんね。
理屈では説明できないけど、なんとなく心にひっかること。
刺さるネタを選ぶのが上手。
でも、村上春樹は着想をノートに残したりしないんですね。
これも興味深いね。
紙などに記録するとネタの鮮度がどの程度か計れないんだろうね。
人の頭の中のブラックボックスで、物語のエッセンスが熟成されたり、消えていったりすることが大事。

いずれにせよ、小説を書くときに重宝するのは、そういう具体的細部の豊富なコレクションです。僕の経験から言って、スマートでコンパクトな判断や、ロジカルな結論づけみたいなものは、小説を書く人間にとってそんなに役に立ちません。むしろ足を引っ張り、物語の自然な流れを阻害することも少なくありません。
(中略)
E.T.が物置のがらくたをひっかき集めて、それで即席の通信装置を作ってしまうシーンがあります。
(中略)
優れた小説というのはきっとああいう風にできるんでしょうね。材料そのものの質はそれほど大事ではない。何よりそこになくてはならないのは「マジック」なのです。
(中略)
 最初に小説を書こうとしたとき、いったいどんなことを書けばいいのか、まったく考えが浮かびませんでした。
(戦争も、戦後の混乱や飢えも、革命も経験していない。虐待や差別も受けていない。普通の家庭の、平凡な少年時代だった。)
(中略)
 これはもう「E.T.方式」でいくしかない、と僕は思うんです。裏の物置を開けて、そこにとりあえずあるものを―――もうひとつぱっとしないがらくた同然のものしか見当たらないにせよ―――とにかくひっかき集めて、あとはがんばって、ぽんとマジックを働かせるしかありません。

『職業としての小説家』 第五章 さて、何を書けばいいのか?

「E.T.方式」ってわかりやすい例えだね。なるほどなって思う。
ETが映画の中で、一見無駄と思えるもの、ガレージのガラクタをかき集めて、宇宙と交信できるという、恐ろしく実用的なマシンを作り上げる。
ボヤッキーが作るビックリドッキリメカみたいな・・・。
なんですか、その例え(笑)。
ビックリドッキリメカのギミックが子供心をくすぐるように、村上作品はティーンのハートをくすぐるんだよ。
ま、そうですね(笑)。
自分も小説を書きたくなる。

これは僕の昔からの持論ですが、世代間に優劣はありません。あるひとつの世代が他の世代より優れている、あるいは劣っているなんてことはまずありません。世間ではよくステレオタイプな世代批判みたいなことがおこなわれていますが、そういうものはまったく意味のない空論だと僕は確信しています。
(中略)
 新しい世代には新しい世代固有の小説的マテリアルがあるし、そのマテリアルの形状や重さから逆算して、それを運ぶヴィークルの形状や機能が設定されていくのだということです。そしてそのマテリアルとヴィークルとの相関性から、その接面のあり方から、小説的リアリティーというものが生まれます。

『職業としての小説家』  第五章 さて、何を書けばいいのか?

ゆとり世代が何かと揶揄されるのも、実はナンセンスなことかもしれないね(笑)。
ナンセンスだと思います!
ゆとり世代をバカにするのも、大人がよく言う「今どきの若い奴は・・・」っていうあれと一緒ですよ!
世代の感性を捉えていない小説にはリアリティーを感じることができないってことかな?
次の世代の作家へのメッセージともとれるね。
それぞれの世代にとって、何がリアルかは違いますよね。

 「オリジナリティー」という言葉を口にするとき、僕の頭の中に浮かぶのは十代初めの僕自身の姿です。自分の部屋で小さなトランジスタ・ラジオの前に座り、生まれて初めてビーチボーイズを聴き(『サーフィンUSA』)、ビートルズを聴いています(『プリーズ・プリーズ・ミー』)。そして、心を震わせ、「これはなんと素晴らしい音楽だろう。こんな響きはこれまで耳にしたことがなかった」と思っています。その音楽は僕の魂の新しい窓を開き、その窓からこれまでにない新しい空気が吹き込んできます。そこにあるのは幸福な、そしてどこまでも自由な高揚感です。いろんな現実の制約から解き放たれ、自分の身体が地上から数センチだけ浮き上がっているような気がします。それが僕にとっての「オリジナリティー」というもののあるべき姿です。とても単純に。

『職業としての小説家』  第四章 オリジナリティーについて

ビートルズやビーチボーイズ。
僕も好きだけど、村上春樹が60年代にリアルタイムで聴いた『サーフィンUSA』や『プリーズ・プリーズ・ミー』は、僕が思春期の80年代に聴いた印象とはずいぶん違うと思うよ。
でしょうね。
でも、それぞれのリアルの中から、それぞれのオリジナリティーが生まれてくる。
僕のオリジナリティー、僕の自由な高揚感は何だろう?
自分のオリジナリティーを他者にうまく表現できたら、よい作家になれるのかもしれませんね。

 昔、作家のジョン・アーヴィングに個人的に会って話をしたとき、彼は読者との繋がりについて、僕に面白いことを言いました。「あのね、作家にとっていちばん大事なのは、読者にメインラインをヒットすることなんだ。言葉はちょっと悪いけどね」。メインラインをヒットするというのはアメリカの俗語で、静脈注射を打つ、要するに相手をアディクト(ドラッグの常習者)にしちゃうことです。そういう切ろうにも切れないコネクションをこしらえてしまう。

『職業としての小説家』  第十回 誰のために書くのか?

はい、そうです。アディクトされたのは僕です。
僕も常習者になりました。
いやいや、面白い本だったね。やっぱり買おうかな。
またじっくり読みたい。
さて、最後に、くまちゃん、このレビューのまとめをどうぞ!
『職業としての小説家』には、村上春樹の“経験則”が惜しみなく書いてあるよ。読むべし!
僕も小説を書きたくなった!
気持ちはわります。頑張ってください(笑)!

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出典 (株)スイッチ・パブリッシング http://www.switch-pub.co.jp/murakami/

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