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【熊本の民話】じごんすから手を突っ込もうとするカッパ ※「じごんす(熊本の方言)」とは「尻の穴」のこと
みなまたの民話「毛ぬきカッパ」
昔、古里村ん下ば流れとる川は、六月の梅雨どきなると大雨んたんびにあふれて周りの田畑ば荒らし、村人たちに難儀ばかけとった。これじゃいかんちゅうこっで、村の石工どんが、
「川の荒れんごつ、堰ば造ろうじゃなかな」と言い出した。(この堰は今でいうダムの役目を果たすもの)村ん人たちもみんな協力して造るこてなった。
この石工どんながまだし者で、雨の日も風の日も一日も休まず、時にゃ三日三晩一睡もせず工事ば続けるこつもあった。しばらく経ったある晩のこつ、石工どんがあんまりがまだし過ぎて急に高い熱ばうっ出し、そんまま寝こんでしもうた。
どんくらい眠ったろうか、寝とったら足の脛のあたりがチクチクするもんじゃっで、石工どんが足ば思いきって動かしてみた。とこるが、何かぬるぬるしたもんにふれたもんじゃっで、うったまがって飛び起きてみると、何とカッパが脛ン毛ばひっかん抜いで、毛の先ついとる肉ばしゃぶっとるじゃなかな。慌てて逃げていくカッパの姿ば石工どんなはっきり見らったげなたい。
昔からカッパは人間のじごんすから手ば突っ込んで、腹わたば引き出して食うち言われとったが、こんカッパはお人好し、いやカッパ好きで気のこまんかったじゃろ。人間ば殺すような悪かこたせず、足の毛ば抜くぐらいが関の山じゃったげな。石工どんな、ハハァ俺が堰ば造っとに川ば浚ゆるもんじゃっで、カッパ奴が俺に悪さばしょっとばいと気づいたので、熱が下がってからカッパが好物の胡瓜ば工事場に供えてことわけば言うたげな。それからこっち、石工どんの家にやピタッと来んごてなり、堰の工事もさし障りなく順調に進み、立派な堰が出来上がり、そん後は災害も少のうなって村には平和が続いたそうじゃ。
今でんその石工どんが築いた堰は残っており、村の田畑ば守ってくれとったい。
(注) じごんす……尻の穴
水俣市史「民族・人物編」より
カッパ伝説が残る人吉球磨地方で、観光イベント「カッパ捜索」なども開催されていました(※2014年の熊本日日新聞より)。
出典:newspark.jp
【全国共通】カッパのイメージ、カッパの好きなもの、キライなもの
※ウィキペディアより抜粋
河童にまつわる民話や伝承には、「悪戯好きだがひどい悪さはしない」とか「土木工事を手伝った」とか、「河童を助けた人間に魚を贈った」「薬の製法を教えた」といった友好、義理堅さを伝えるものも多く伝わる。一方で、水辺を通りかかったり泳いだりしている人を水中に引き込み、おぼれさせたり、尻子玉/尻小玉(しりこだま)※を抜いて殺したりするといった悪事を働く描写も多い。
※尻子玉とは人間の肛門内にあると想像された架空の臓器相撲が大好きで、よく子供を相撲に誘い、相撲に負けた子供の尻子玉を抜くという伝承もある。
好物はキュウリ、魚、果物。鉄、鹿の角、猿を嫌う。
「河童」は,ある精神病患者の談話を筆録したという形で書かれたユートピア小説.ここに描かれた奇妙な河童の国は,戯画化された昭和初期の日本社会であり,また,生活に,創作に行きづまっていた作者の不安と苦悩が色濃く影を落している.脱稿後半年を経ずして,芥川は自ら命を断った.(2003/10/17発売)
【熊本のカッパ伝説1】九千坊(きゅうせんぼう)と清正公~八代の河童渡来の碑
国際日本文化研究センター(京都市)の「怪異・妖怪伝承データベース」による、民俗学の文献でカッパに言及している事例の数をみると、全1048件のうち九州・沖縄地域は337件。ブロック別で最多だ。福岡市博物館の松村利規主任学芸主事いわく「九州には特にカッパが多い」。まさに「九州はカッパ王国」(九州観光推進機構)であるともいえる。
九千坊(きゅうせんぼう)と清正公
昔、中国にすむカッパたちが、一番大きくて力が強い九千坊をリーダーに、球磨川にやってきた。その数は九千匹。球磨川はとても水がきれいで住みよく、カッパたちは大はしゃぎ。畑を荒らしたり、馬を川に引き込んだりした。
困り果てた村人は、殿様の加藤清正公にカッパ退治を訴え出た。清正公は、カッパが苦手とする猿を集め、「カッパをこらしめろ」と命令して退治させた。カッパはほうほうの体で筑後川に逃げ出したという。
その後、カッパは水難よけの神さまの使いになったと伝えられている。
カッパ渡来の碑
球磨川の支流、前川河口に近い前川橋のほとりにあります。この碑文によれば、仁徳天皇の頃中国から九千匹の河童が揚子江を下り黄海を経て八代に上陸したといわれています。
河童渡来の碑
前川に架かる前川橋周辺(本町三丁目)は徳渕津と呼ばれる港があった場所で、中世以来、八代の海の玄関として大変栄えたところです。この前川橋のたもとに河童渡来の碑があります。二つの石を組み合わせたりっぱな碑ですが、この二つの石をガワッパ石と呼びます。なぜそう呼ぶかというと次のような言い伝えがあるからです。
最初に河童がやってきた所がここ徳渕津で、ここに住み着いたあと八代で生活を始めた河童はいたずらを繰り返し、人々の怒りをかいます。とうとうつかまってしまった河童は、2つの石がすり減ってしまうまで悪さをしないことを約束し、その代わり年に一度祭りをして欲しいとお願いし許されます。この二つの石は後にガワッパ石と呼ばれ、橋石として使われていたそうです。また、その時以来始められた河童を祀る祭りを「オレオレデーライタ川祭り」といいます。「オレオレデーライタ」の意味については諸説ありますが、「呉の国からたくさん来られた」という意味だという人もあります。
※「河童渡来の碑」は「河童像(薩摩街道八代札の辻)」の近くにあるようです
日本人の生活の中で、河童が持つ意味や象徴性は何か。九州各地の豊富な伝説をもとに、地元河童愛好家が探る新しい河童像への試み。(1993/4発売)
【熊本のカッパ伝説2】天草・栖本町のカッパ街道と「河童の手」
河童伝説にちなんで、県道34号(松島馬場線)に現在27体のカッパ像を設置。通称・河童街道と呼ばれている。一家団欒しているカッパや橋の欄干に座るカッパ、逆立ちしているカッパなど、ユニークなカッパたちが道行く人の目を楽しませてくれる。
平成19年11月に新しい親子かっぱのモニュメントが完成。
※学研「ムー」より
熊本県天草市の志岐八幡宮には、「病を治す河童の手」があるという!出典:getnavi.jp
ぬめり、水かき、悪戯にキュウリ。異色の生物学者が、時代ごと地域ごとの民間伝承や古典文献を精査。<実証分析的>空想生物学。解説 小松和彦 (2019/11/8発売)
僕らの昭和、黄桜のカッパ
良妻賢母、かつお酒好きで色っぽいなんて、まさに理想(笑)
黄桜の初代カッパを描いたのは清水崑氏
2代目カッパを描くのは小島功氏
カッパといえば、水木しげるも忘れてはいけない。「河童の三平」は代表作のひとつですな(1988/6/1発売)
日本古来の妖怪河童が大集結 (2017/6/26発売)
【熊本のカッパといえば・・・】金龍堂まるぶんのカッパ像
元なでしこジャパン・丸山桂里奈隊長とともにカッパを探そう! 「丸山桂里奈 本気でカッパを見つけに行こうバスツアー!! Vol.1」 発売 https://t.co/SS8F4pYYzC @PRTIMES_JPより
みなさまー本日15時までで締め切りです♫ちなみに定員までまだ行っていないようののでぜひ、お願いします🥒🥺
— karina maruyama丸山桂里奈 (@marukarichan11) September 11, 2019