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【原風景】麻原彰晃こと松本智津夫が、6歳から20歳まで過ごした盲学校は熊本・水前寺にあった
かつて、県庁近く水前寺競技場に隣接する場所に、麻原が過ごした盲学校あったという。※上の画像「熊本県立盲唖学校跡」は熊本テルサ前(2025/4撮影)です。某古地図では以下の場所とありました。まあ、この界隈に学校と宿舎があったと思われます。
麻原が高等部1年時の1970年(昭和45年)9月1日には、現住所の熊本市東区東町に校舎が移転している。
【盲学校時代】少年松本智津夫(麻原彰晃)、女生徒に「好きだ、好きだ、好きなんだー」【熊本・水前寺】
出典:www.nhk.jp
1961年(昭和36年)4月、一旦は八代市立金剛小学校に入学するが、視覚障害者(隻眼)を理由に同年秋(6歳)より当時熊本市出水町今(現在の熊本市中央区水前寺)に所在した熊本県立盲学校に転校、寄宿舎に移住。しかし、智津夫は全盲の兄とは異なり目が見えたのに、学費も寄宿舎代も食費も不要な盲学校へ入れられたことを親に捨てられたと思い不満をぶつけ、転校の際には泣いて嫌がったという。近所では口減らしではないかと噂が流れた。20歳で卒業するまでの13年間、両親が訪ねてくることはなく、衣服や食料を送ってくることもなかった。他の子供たちは週末には里帰りしたが、松本3兄弟は寮に残った。
当時オウム同様の閉鎖社会であった盲学校では、強い権力欲を見せ、目が見えるために他の子供たちを子分扱いにし、暴力で支配、全盲の子供を外へ連れ出すと食事をおごらせたり窃盗を命じたり、全盲の生徒相手に落とし穴を仕掛けたり、リンチをさせたり、自分の欲しいものを買わせたりし、「外へ連れて行ってやったのだから日当をよこせ」などと言ってお金を巻き上げていたという。寄宿舎の消灯時間が過ぎたにもかかわらず部屋の明かりを点けたことを寮母がとがめた際には、ふてぶてしい態度で「宿舎ば(を)焼いて明るくするぐらいのこつば(ことを)やってやっぞ」「撃ち殺すぞ」と言った。生活指導の教師が注意すると「言うだけなら、なにを言うたって勝手でしょう」と語ることもあった。凶暴なので退学させろとの声も出ていた。金への執着が強く、同級生への恐喝によって卒業するまでに300万円を貯金していた。
27歳の智津夫は「男の子と遊ぶとすぐに喧嘩になってしまうから、女の子とよく遊んだんです。お医者さんごっこをやって、女の子の性器に砂をいれて、評判を落としたりしましてね。」と打ち明けている。
一方、高等部での担任教師であった人物は、盲学校時代の報道を聞いて「そういう陰日なたのある人間とは、とても感じられなかった」、「明るい活発な子で、遠足に行くときは見えない子の手を引いてやったりしていた」と述べている。
盲学校で演劇『みにくいアヒルの子』の主演をして演劇が好きになり、自作自演していた。『源氏物語』では女生徒を侍らせ、恋愛劇『ちぎれた愛』では「好きだ、好きだ、好きなんだー」と絶叫した。
成績は中程度であったが、「自分のように病気で困っている人を救う仕事がしたい」と熊本大学医学部を志望するようになり、高等部3年の3月に同医学部を目指すが当時は視覚障害者では医師免許が取れなかったこともあり諦め、高等部専攻科に進学する。
体格が良く、当時の教師によると高等部3年の時には身長175センチ体重80キロはあり、部活動は柔道に打ち込んだ。1975年(昭和50年)1月12日には、盲学校の生徒としては異例の柔道二段(講道館)を取得(一連のオウム事件の裁判が進むと講道館より段位を剥奪した事が記者会見で発表され、その様子がテレビや新聞各社、近代柔道誌などで報道された)。
毛沢東や田中角栄などにかねてから傾倒し、鍼灸免許も取得した松本は、この頃より「東京大学法学部卒の自民党の政治家となりゆくゆくは内閣総理大臣の座に就くこと」を志すようになった。なお、小学部5年時に児童会長、中学部在籍時と高等部在籍時に生徒会長、寮長に立候補するが、全て落選している。菓子で買収もやっていた。後の真理党の時のように先生の陰謀だと言い出したこともあった。19歳の時には盲学校の自治会で破壊的な主張を繰り返し、大混乱に陥れた。
1975年(昭和50年)3月(20歳)、熊本県立盲学校を卒業した。
音楽好きであり、盲学校中学部・高等部時代に、他の寄宿生らを集め西城秀樹や尾崎紀世彦の歌を歌う「松本智津夫ショー」を何度も開催し、盲学校生を困らせた。空き缶をマイクの代わりにして西城秀樹の当時のヒット曲「傷だらけのローラ」を歌ったこともある。校内で結成したバンドでもボーカルを務め、西城の「情熱の嵐」を十八番としていた。
【もうひとつの顔】一般人としての松本智津夫、その愛
出典:bunshun.jp
麻原彰晃が生まれ育った土地を歩く 右目は視力があったのに盲学校に通った”事情”|八木澤高明
TABLO / 2018年7月19日 15時33分
※以下、一部抜粋
麻原の記憶を求めて、私はさらに集落の中を歩いてみた。麻原と同年代と思しき人たちに話かけてみても、幼少時代にこの土地を去ってしまった麻原のことを覚えている人には、出会うことができなかった。やっとのことで麻原一家のことを覚えている老婆に出会うことができた。
「お父さんは悪か人ではなかったよ。腕のいい職人さんだったよ。事件のだいぶ前には、仕事をやめていたけどね」
老婆にとって、オウム真理教の麻原彰晃は、金剛村の松本智津夫として記憶が残っていた。
「麻原彰晃じゃなかばってん、松本智津夫は、何度か青山弁護士とここに来ていたよ、小屋みたいだった家も大きくしてね」
老婆の記憶では、麻原の一家は大陸からの引揚者だった。
「父親が満州から引き揚げてきて、炭坑夫をしていたおじさんのところで、世話になってね。ここに来る前はお父さんも炭坑夫をしていたみたいだよ。それからここで畳屋をはじめたんだ」
話を聞き終えて、挨拶をして立ち去ろうとすると、老婆はぽつりともらした。
「智津夫はかわいそうな子だった」
老婆は何を思いその言葉をもらしたのか、世間からは稀代の悪人でしかない麻原彰晃、彼が生まれ育った土地では、世間とは違った眼差しで麻原を見つめる人の姿があった。
麻原彰晃こと松本智津夫は二度と故郷の土を踏むことはない。(取材・文◎八木澤高明)
このころには世田谷区の道場に住み込むようになりほとんど家に帰らなくなる。たまに麻原が帰宅すると3人の娘たちが大喜びで玄関まで走って行き、姉妹で父を奪い合っていた。次女は父の帰宅を「太陽のない世界に、太陽が来た」などと表現していた。しかし、妻の知子は麻原が滅多に帰宅しないことなどから精神不安定となり、麻原に向かってなじるようないさかいがあったが、麻原はほとんど抵抗をしなかった。三女麗華の目には、知子が麻原の宗教を信じているようには見えなかったが、麻原の著書の代筆を深夜まで行っていた。後の麻原の著書のいくつかは、知子が書いたものであった。麻原は子供に向かって「蚊に刺されると痒くていやだね。でも蚊も生きているんだよ」や「お釈迦様によれば、私たちは死後生まれ変わり、もしかしたら蚊に生まれ変わるかもしれない」などと話していたが、妻の知子は当時は信仰心を有していなかっためか、蚊を平気で殺していた。また、麻原はその頃、家族とともに発展途上国を中心によく旅行をしたが、子たちに「世界には食べ物を食べられない子も、屋根のあるところに住めない子もいるんだ。食べ物を粗末にするのはやめようね」などと諭したりしていた。
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