「【球磨郡錦町】傾斜を利用した巨大遊具!剣豪・丸目蔵人(まるめくらんど)の名を冠する、錦・くらんど公園で遊ぶ」くまとR子の子育て日記(311日目)

子育て日記
スポンサーリンク
スポンサーリンク
剣豪「丸目蔵人(まるめくらんど)」の名を冠する「錦・くらんど公園」!
熊本ゆかりの剣豪が宮本武蔵以外にもいたのね。
☆☆☆☆☆
2019年、くま(50歳)とR子(43歳)の子育て日記です。
第一子むーちゃん(♀)は5歳、そして、第二子たろー(♂)は2歳になります。
高齢出産、高齢子育て・・・引き続き、が、頑張ります。
☆☆☆☆☆
球磨郡錦町の「道の駅 錦」にある、「錦・くらんど公園」へ行ってきました。錦町は「剣豪とフルーツの里」というキャッチフレーズ、剣豪「丸目蔵人(まるめくらんど)」が有名だそうです。
☆☆☆☆☆
スポンサーリンク

人吉から錦町の「錦・くらんど公園」(球磨郡錦町)へ

錦町なんてめったに行く機会ないけど・・・人吉のついでに巨大遊具のある公園「錦・くらんど公園」に遊びにきたよ。
人吉の繊月まつりの帰りです。

関連エントリー→「【令和元年】熱く抱擁する宇梶剛士さんとくまモン~第33回繊月まつりの後は、人吉餃子の名店『松龍軒(しょうりゅうけん)』へ」くまとR子の子育て日記(308日目)

ままはよっぱらってるでしょ?
うん。

※現在の語彙は、「まま」「あんぱ(アンパンマンのこと)」「あんにゃ(バイキンマンのこと)」「にゃー(キティちゃんまたはサンリオキャラのこと)」「あけて(お菓子の袋を開けてほしいときなど)」「ばーば」「じじ」「ぎぎ(うさぎのこと)」。そしてやっと最近「たた(ぱぱ)」と言うように! また、首をふったて否定したり、「うん」と頷いたり肯定したりと意思表示できるようになりました。

錦町のゆるキャラ「錦太郎(きんたろう)」

出典:www.nishiki-machi.com

錦・くらんど公園

広大な敷地(6.5ha)に芝生広場、わんぱく広場、錦鯉が泳ぐ錦池等親子でのんびりと過ごすエリアとして平成15年1月にリニューアルオープンしました。命名の元となった丸目蔵人の立像、少年剣士の像も建立されています。なお、道の駅、特産品を販売する農産物直売所くらんど市も併設しています。

出典:kumamoto.guide

スポンサーリンク

【球磨郡錦町】傾斜を利用した巨大遊具!剣豪・丸目蔵人(まるめくらんど)の名を冠する、錦・くらんど公園で遊ぶ

ママは酔っぱらってるから、クルマで寝てていいよ・・・。
ごめん・・・。
たろー、あそぼー!
きゃっ!きゃっ!

人吉市中心部からクルマで20分くらいです。「道の駅 錦」に到着。

錦・くらんど公園の「くらんど」は、剣豪「丸目蔵人佐長恵(まるめくらんどのすけながよし)」の名前から。

こちらが「丸目蔵人(まるめくらんど)」像。

丸目蔵人の下には、「少年剣士」の像。

こちら芝生広場には鯉のぼりが泳いでいました。

こちらはわんぱく広場。かなり広い公園です。

まずはターザンロープで遊ぶ5歳児。平成15年1月にリニューアルオープンしたそうです。

傾斜を利用した、アスレチック感覚の巨大遊具が、この公園の主役です。

巨大遊具は少しくたびれてきている感じですが、特に使用禁止の箇所はないようです。

わんぱく広場には、ブランコや滑り台、太鼓橋など、よくある遊具がひと通りあります。

小さい子はこっちで遊ぼうね。

たっぷり遊んだ後は、道の駅でソフトクリーム!

スポンサーリンク

剣客「丸目蔵人(まるめくらんど)」の兵法タイ捨流!

出典:www.taisharyu.jp

兵法タイ捨流 とは

江戸初期の剣客“丸目蔵人(まるめ・くらんど)”が興した剣術の流派である。

兵法タイ捨流の「タイ」という言葉には、「大・体・待・対・太」など複数の意味合いが含まれている。
「大」は、丸目蔵人の師である”上泉信綱(かみいずみ・のぶつな)”の死後「偉大な師を失った」という意味を示す。そのほか、「体」とすれば体を捨てるにとどまり、「待」とすれば待つを捨てるにとどまり、「対」とすれば対峙を捨てるにとどまり、「太」とすれば自性に至る。

また、これらの言葉にとらわれない自在の兵法である。

出典:www.taisharyu.jp

「錦・くらんど公園」、その名の由来は、剣豪「丸目蔵人佐長恵(まるめくらんどのすけながよし)」だという。
熊本ゆかりの剣豪が宮本武蔵以外にもいたのね。
「兵法タイ捨流」だって。なんかカッコいいぞ!
へー。
むーちゃんもならいたい!
ぱぱ?
剣豪「丸目蔵人佐長恵(まるめくらんどのすけながよし)」

丸目蔵人佐長恵 (まるめくらんどのすけながよし)
タイ捨流創始・相良藩剣術指南役(1540~1629)

 天文9年(1540)八代に生まれた。当時八代は相良氏の支配下にあった。若いころ上京して上泉伊勢守信綱に新陰流を学び、四天王の一人となり、足利13代将軍義輝に演武を披露して感状を受けた。その後、戦国の武将筑後山下の城主蒲池鑑廣や勇将柳川城主立花宗茂に新陰流を教え、授けた免状は今も保存されている。やがて新陰流を離れて、より実践的な剣法タイ捨流を創始、西国に広めた。示現流を採用する前の薩摩藩はタイ捨流を相伝した。あるとき徳川幕府の指南役柳生但馬守宗矩に試合を挑み「竜虎相搏つは非、天下を二分せん」と説得された話や巌流島決闘のあとで訪れた宮本武蔵に、タイ捨流二刀の型を伝授したという話など、逸話も多い。

 晩年は一武村(錦町一武)に隠棲して、村人とともに七町歩余の山野を拓き、その田畑や水路や植林地は残って今に活用される。元和4年(1618)、京都からローマに送ったイエズス会宣教師の報告書に、高潔で品格ある丸目蔵人佐の風貌が描かれているのは注目に価しよう。

 寛永6年(1629)没。89歳。墓は切原野堂山。墓前には追善のために村人で建てた石灯籠がある。

出典:www.nishiki-machi.com