テロ多発の今こそ…ライヴDVD9月に発売
【名曲名盤を聴こう!】戦いに疲れた世界、癒やして キャロル・キング「つづれおり」(1971年) – 産経ニュース https://t.co/JPw55MCGwX @SankeiNews_WESTさんから pic.twitter.com/YmRYiQvlzy— 産経ニュースWEST (@SankeiNews_WEST) 2017年7月6日
プロフィール:高齢子育て中、飲酒は週末のみ
特技:奥さんをフォローすること(嘘)
プロフィール:ゆとり世代(さとり世代)、独身、潔癖症、シニカルな視点は世代のせい?
特技:インターネット超高速検索
☆☆☆自己紹介ここまで☆☆☆
「資本市場の本格的なグローバル化が始まった、1971年」~バック・トゥ・1971
1971年の出来事
7月30日 – 自衛隊のF-86戦闘機と全日空のボーイング727型機が、岩手県雫石上空で空中衝突、旅客機の乗員、乗客162人全員死亡(全日空機雫石衝突事故)
8月15日 – ニクソン・ショック(アメリカが金とドルの交換停止)。
8月28日 – 円変動相場制移行。
10月25日 – 中華人民共和国が国連加盟、中華民国(台湾)は事実上の追放。(アルバニア決議)
12月18日 – 10ヶ国蔵相会議、通貨の多国間調整で合意(スミソニアン体制発足)。
その他、調べてみると・・・1966年には100名以上が犠牲となる航空機事故が2件もありました
日本でも意外と大きな航空機事故が発生していたんだね・・・
アメリカが金とドルの交換停止したニクソン・ショックで、日本も円変動相場制移行した
資本市場の本格的なグローバル化が始まったのが、この1971年と言えるでしょう
ニクソン・ショック
長い歴史を通じて、通貨とは金に変換できるもの、という考えが定着していた中で、世界で唯一、金と自国通貨ドルとの交換を約束していたアメリカが突然、金との交換を停止すると宣言したこの「ニクソン声明」とその後の市場の混乱を「ニクソン・ショック」と呼びます。現在でも「オイルショック」や「リーマン・ショック」など、経済における想定外の出来事は「ショック」と表現されますが、この「ニクソン・ショック」こそ、その先駆けです。そしてこの声明は、後述する1944年以来の「ブレトン・ウッズ体制」の終焉を意味する、重要なものでもでした。
出典:diamond.jp
ニクソン・ショック→変動相場制
ニクソン・ショックは、固定相場の仕切り直し(スミソニアン協定)を経て、変動相場制を生みだしました。その制度は現代にまで受け継がれていますが、決して理想的なシステムとして認知されているわけではありません。たとえば、ブラジルやインド、中国などの新興国は、急激な資本の流出入を回避しようとして、一時的に資本規制による為替変動抑制策を採ることが少なくありません。また先進国においても、輸出競争力を高めるために為替介入や金融政策を通じた自国通貨安誘導を行う例が、今なお見られます。
出典:diamond.jp
男の子のヒーロー神話はこの年から?!
1971年のカルチャー
4月1日 – アメリカでこの日から、テレビ・ラジオでのタバコのCMが全面的に禁止となる。
4月3日 – 毎日放送(当時はNETテレビ系)が特撮テレビドラマ『仮面ライダー』放映開始(『仮面ライダーシリーズ』スタート)。
7月20日 – マクドナルド日本第1号店「銀座店」、三越銀座店脇にオープン。
9月18日 – 日清食品が「カップヌードル」を発売。カップ麺の先駆けとなる。
10月10日 – NHK総合テレビが全放送のカラー化を開始。
11月20日 – 日活ロマンポルノの第1作『団地妻 昼下がりの情事』が公開。
これ違法じゃない?
2歳の僕(熊本)~遥か昭和46年への旅
なんか笑っちゃいますね
1971年頃の熊本市
県庁が水前寺に移転し、長嶺・月出にあった熊本空港が高遊原に移転した1970年代以降は長嶺や武蔵ヶ丘・楠方面に住宅地が拡大した。特に1971年(昭和46年) – 1972年(昭和47年)にかけて整備された熊本東バイパス(神水以北区間)はこれらの住宅地の背骨として重要な交通路となり、畑や雑木林が占めていた丘陵地は急速に宅地化された。
僕が暮らしている地域のインフラが整ってきたのは、僕が生まれた直後だったのか
旧熊本空港(健軍空港)について
熊本空港が現在地に移る以前の旧空港は現在の熊本市北東部(長嶺・月出地区)に存在した。この空港は戦時中に陸軍の飛行場(東町に存在した旧三菱重工熊本航空機製作所に付属)として建設された後、1960年に民間転用された。当時は住居表示実施前であり、空港敷地の地名は健軍町(滑走路の一部は熊本市合併前の飽託郡託麻村)であったので一般的には「健軍空港(健軍飛行場)」と呼ばれ、広く熊本県民に親しまれていた。滑走路の総延長は1200mであり、当時の東京までの所要時間(途中経由地あり)はプロペラ機で5時間15分であった。 市街地にも近く立地的には便利であったが、周辺の宅地化が進み騒音問題に悩まされるようになったうえ、ジェット化に対応することが難しかったことから1971年に現在地(高遊原)に移転した。
今も響く、キャロル・キングのハスキーで優しい歌声
僕が生まれた頃の音楽かと思うと、実に感慨深い・・・
これまでの旅はこちら→
『人類、月へ!』~バック・トゥ・1969(遥か昭和44年への旅)その1、
『ビートルズの終焉・・・』~バック・トゥ・1969(遥か昭和44年への旅)その2、
『われわれは明日のジョーである』~バック・トゥ・1970(遥か昭和45年への旅)その1、
『私の人生暗かった・・・圭子の夢は夜ひらく』~バック・トゥ・1970(遥か昭和45年への旅)その2